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zoom RSS 藤原新也・著「死ぬな 生きろ」

<<   作成日時 : 2010/09/01 19:49   >>

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画像
写真家・藤原新也さんの書き下ろしの新刊「死ぬな、生きろ」
B6判、ほぼ400ページ。本が立つ。

・・・・
四国八十八ヶ所はこの三十年間にいくたびか回遊している。
そのつど世界のものの見方が変化した。
そして旅もここにきてひとつの極に至りつつある。
どれだけ余計なものをそぎ落とした言葉によって世界を伝えることが出来るか。
それは時にわたし個人すらそぎ落とした“単語”に至る。
その時、消去された“わたし”を再復元させるものとしておのずと「書」が必要とされた。
そこにはギリギリのわたしがいる。
この本には誰の邪魔にもならないギリギリのわたしがただ呼吸をしている。

藤原新也
・・・・

腰巻きにはこう記されていた。
お母様が亡くなられたときに「四国八十八ヶ所を回りきれないのが心残りだ」というので、代わりに回ると約束したのが始まりだとか。

この「藤原新也」というお方、一応、写真家ということなのだけれど、文章も達者で、写真と文章の綾が良い。
写真だけでない、文章も巧みで、相乗効果の良さがある。
双方に独自の視点がある。

同様に文章も巧みな写真家として、横木安良夫さんがいらっしゃる。

藤原新也さんは、何と言っても、犬が人の死体を食べている写真だ。あの衝撃は今も残っている。
横木さんは、阪神淡路大震災の崩れ倒れた高僧道路の傷だらけの写真。

この2点の作品だけで、もうこのお二人には「逆立ちしたって何したって敵わない」という印象が心に刻まれてしまった。
横木安良夫さんは、ファッション系の写真も撮られているし、広告などグラフィックデザイン的スマートな写真も撮られているが、藤原新也さんは、泥臭いルポルタージュの印象が強い。

その、文章での表現にもするどい切れ味を持つ藤原新也さんが、今回、殆ど文章を書いていない。

あるのは88点の「写真」と「書」である。

「書」は自己流なのかもしれない。
しかし、有無を言わせぬ迫力のようなものがある。
何か強く訴えかけてくるものがある。

かなり書いておられる、という感じである。慣れている感じもする。
「味」というような言葉では足りないような「迫力」がある。

写真も、例えば、三好和義さんの「巡る楽園」のようなキレイな写真ではない。
観光的な切り取り方の写真ではない。

必ずしも「四国八十八ヶ所」とは言えないようなものばかりのように見えるが、どれも遍路道を表す物ばかりっであり、これが藤原新也流の切り取り方、ということ。

一枚一枚に写真に情感がこもっている感じがある。
一枚一枚を記憶に積み重ね、振り返ってまたその一枚一枚を見たときに、また、全部の写真のイメージの記憶がまとまって、強く訴えかけてくるものがある。

遍路と言うと、今は「癒し」というようなキーワードで語られること多いが、昔はそんな生易しいものではなかった。
あの装束が「死に装束」であるように、命を課した旅だったのだ。

命を見つめる旅であることが多かった。

遍路という行をすることで祈願をすることもあったろう。

何にしても重い旅だったことは確か。

遍路の、そんな重さが感じられる写真である。

「砂の器」の、最近のテレビ版ではどうだったか知らないが、昔の映画では、ハンセン病の父と子が遍路を続けていた。
それは、排除された人間だから、いる場所が無かったのだ。
そういう人が遍路をしているということも多かったようだ。

最も、映画では島根県の「亀嵩(カメダカ)」が出てくるから、四国遍路というわけではなかったのかも知れないが、映画のイメージは正に四国遍路という感じだったし、事実、四国遍路にはそういう意味もあったようだ。

遍路には「ご詠歌」が付き物だけれど、これだって「乞食節」と言われていた。
遍路が乞食だったのだ。
乞食を(こつじき)と呼べば托鉢と同義になるが、これはそのまま乞食。

テキトウにご詠歌をお唱えし、経を読んで「おめぐみ」をいただく輩が増えて困る、というような話しもあったらしい。
遍路に良いイメージは無かったようにも思える。

ご詠歌が宗派の布教に使われるようになったのは、大正も終わりの頃だ。
それまでは、お遍路さんや、巡礼の人たちの唄だった。
民謡のようなものだった。
いや、民謡の一部といえたかも知れない。

その、遍路の「重い部分」が、この写真と書には出ている。

実は、カメラなどの機材が分かっても「どうやって撮ったらこうなるのか?」ということが分からないのごこの方の写真。

この本も、この被写界深度の浅い写真を見ていて・・・
「やっぱりフィルムだなぁ。明るいレンズで絞り開放で撮ったのか? このトーンは何だろう? ネガとの違うし、ポジっぽいが・・」
などと、イケナイと思いつつ、つい、撮り方・機材のことを考えてしまう。

今度、フィルムで同じ撮り方をやってみるか・・・、
何か参考になるようなものがあるか?・・・と検索したら、氏のブログに当たった。
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php

で、驚いた!!!!

以下のような記述があったのだ。

・・・・・
88とはつまり札所の数である。当然撮った写真は膨大だ。
これまで私は四国はたびたび訪れているが、過去の写真は一切使っていない。写真は魚と同じような生ものだから、そのとき撮ったものを使うべきだとの思いがある。使ったカメラはデジタルである。
この本のインタビュー時に来たカメラマンがこの本を目にして「えっ、これがデジタルですか」と驚いたが、おそらくこの本の写真を見た人はデジタルとは思えないだろう。そこには私なりのデジタルをいかにアナログ化するかというそれなりの研鑽というものがある。
私はデジタルというものを昔から拒絶していない。
このような時代、新しいメディアを嫌う人がいる。
だが、私には表現者というものは毒を食わば皿まで、あらゆるものを受容すべきだという考えがある。
・・・・・

デジタル!?!?・・・だった、んだぁ・・・・。

「やっぱ、フィルムだよなぁ!」と思ったくらいだ。デジタルには思えなかった。

ただ、何枚か描写の細かい写真があって、その感じが、35mmではないように思えた。
プラウベル・マキナで開放で撮った?・・でも、開放でもここまでボケないだろ・・。
グリーンの出方がちょっとデジタルっぽかった。
部分的にデジタルなのかな?・・・・

などなど、色々考えていた。
これで「デジタルだよ〜〜ん」と言われちゃったらどうしよ。・・と思っていたのだ。

ところが・・・・・

そうだったんだ・・・デジタル?!!!

まだ、信じられない。
印刷のせいもあるけれど、そうは見えないのだ。

ここに、氏の機材の使い方がある。
感覚で撮っているように見えて、フィルムや機材を独自の表現に持って行く術を持っている方なのだった。

2年前じゃ、GF1とかもないし、何だったんだろう。気になってきた。
一眼レフだったのか?

写真と書に感動したはずなのに、最後には機材で悩んでしまった。

罪な本である。

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