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zoom RSS 廃墟萌え〜〜??

<<   作成日時 : 2011/03/23 15:36   >>

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画像
例えば、街の写真を撮っていると、このような写真を撮ることがある。
思わずカメラを向けて、撮ってから・・・・

これをどう捉えたらいいのか、どう考え、どう位置づけるか?・・・ということに悩む。

いわゆる「廃墟」であるが・・・・

まず、廃墟というものは、それ自体が「絵になる」もので、写真の題材としては、被写体に撮らされていると感じるものでもある。
それ自体が、能弁に語りかけるものであって、作品としては作者の存在が薄れるような気がしてしまう。

あるものを捉えて定着させるという写真の作品性というものを考える時に、被写体自体の良さと、それを捉え写真としてまとめる技量というもののバランスを考えさせられるものでもある。

「作品」なのか?(創作なのか?)

それとも「被写体」なのか?(記録なのか?)・・・という問題・・・・。


もうひとつ、私は廃墟というものが嫌いな存在であるということ。

廃墟は「死体」であると思う。
葬られていない死体のように思えてしまうのだ。

廃墟に、恐れを抱く人は、そのような不気味さを感じるのだと思う。

廃墟は、まず、その建物自体の死体であって、それが使われていた当時の(生きていた時)のことを考えると、そこに「葬られない魂=怨念」のようなものを感じる。

また、それは人に使われていたものである、ということを考えると、人形をそのまま捨てられない、というような、人が使ったものにその魂が入るような観念があるように思う。

私は、その両方を感じ、廃墟というものには魅力を感じるどころか、とても心地よくないものである。

このような感覚が「幽霊伝説」といったものを生むのだろう。
であるから、かなり多くの人が不気味さを感じるのであろうと思う。

廃墟は、かつて使われていた時には「生きていた物」なのである。

その命が滅んだものが廃墟であると思う。

「廃墟萌え〜〜!」なんて言っている人の気持ちがまったく分からない。

それは、一種の「怖いもの見たさ」なのだろうと思う。

メディアにおいて人の死体などは封印されている。

亡くなられた方の尊厳を重んじる、ということが重要と考えられていることによるのだろうが、一方で、不快になるものをメディアは扱わない、という事なかれ主義も見え隠れする。

日本では「死体は写さない」というのが、メディアの間で、これは割と共通して認識されているので、我々は、特に若い人たちは、メディアを通して、死体を知らない。

そういう者が、隠されれば隠されるだけ、何故に隠されるのか、という思いも起こるだろうし、それを見たいという気持ちも起こるのではないだろうか?

テレビでは、遺体があるその事象を・・・(例えば青木が原樹海の自殺などを)放映する時などに・・・遺体を見つけてしまった(撮った)時、放映するときには「ぼかし」を入れる。

この「ぼかし」が良くないもので、それを見たいと思う気持ちをも誘う場合もある。

初めから写らないように撮ることもできるだろうに、それもしないのはまったく知恵の無い撮り方であると思う。

若い人には、家族が核家族で、家族の死を身近に見ないということもある。

「廃墟萌え〜〜」の一部には、そういう意思、というか、私としては認めたくない「好ましくない嗜好」があるように、お萌える・・・いや、思える。

特に、自然の中にある廃墟は、まさに、自然に帰ろうとしている死体(意識して遺体と言っていない)である。

それに対しては、例えば・・・
先に述べた青木ガ原樹海の遺体だったり、戦争で南方において戦死してジャングルに埋もれた骸骨、というようなイメージを抱いてしまう。

そう「ガイコツ」である。
キチンと葬られ、弔われることなく、霊魂が取り憑いたまま、という感じがする。

人が作った建物の骸骨は、キチンと葬ってあげるのがいい。
使われていていない物を残すことはない。
壊して、更地に戻すべきだと思う。

さて、廃墟の写真だけれど、自分の場合は、未だに気持ちがはっきりしていない。

街にある廃墟は、死体というより、取り残された時間という感じが強くあるのではないか、と感じている。

「今の街を撮る」というテーマにおいては、街にも生老病死があると考え、街の、その生きているかのような様の、ひとつの姿を捉えるものと思いながら撮っているのだけれど、やはり現像から上がったポジを見ると、悩む。

しかしながら、被写体の魅力を捉えるのが写真であるとするなら、それを切り取ることは写真の当然の方法論である。

そう思って、街全体を捉えることを目指すことにする。


廃墟といえば・・・栃木には「足尾」という存在がある。
コレがまた問題で・・・・これについては後日書きます。




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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
ご時勢上いささか不謹慎ですが・・・
子供頃12chでは終戦記念日(この言葉もおかしいのですが)が近づくと決まって東京大空襲とか実録画像テンコ盛りでした。
親父が戦記などにはうるさく見せられいたので消し炭のような亡骸を観ていました。

時は雲仙普賢岳災害。4Chだったか朝、現地に飛んだヘリの画像は・・・。
明らかに火山灰に横たわるあの消し炭でした。あれは封印でしょうね・・・。
私は観ました。
そして今回も・・・
実際、現地はおろか栃木でも停電リアルタイムではご覧になれなかったのでは・・・
停電免れた地でNHKのヘリ映像、津波で今流される車を観ていました。
人間のエゴの廃墟ではなく自然災害の瓦礫を・・・。
やましん
2011/03/23 22:08
少し前、当地の名鉄揖斐線・谷汲線の廃線跡を歩き、AFDで撮りましたが、、、

駅舎は荒れて嫌な気分になり、、、線路沿の春景色は逆にキレイ過ぎて悲しくなり、、、止めました、

仰る通りです、、、。
007
2011/03/24 05:21
飯島洋一の『王の身体都市』によると
1962年に磯崎新は自身の都市計画案に廃墟のイメージをだぶらせたモンタージュを発表ているそうですが、それに関して飯島は「一個の建築の完成はしばし新しい生命の誕生と見做される事がある。」「しかし磯崎にとっては建築はたとえみずみずしく新しさを含むものであろうと、同時にそれは廃墟と死をどこかに何らかのかたちで内包するものでしかないのである。」とのべています。

ポストモダン的な手法はしばしば表層的なもの。『側』の問題でしかないと私は思っていましたが、過去の建築言語を接続することで、新しく建築されたものに、竣工された時点で、すでに廃墟と死が内包されている事を目に見える場所、表面にうきだたせる方法でもあったのかなと思います。

「死を思え」とはよくきく言葉ですが、きらびやかにディスプレイされた大型ショッピングモールの中を手をつなぐたくさんの家族が行きかう光景の中に廃墟と死が内包されているという事を感じるような想像力を私はもちえなかったし、夢の国は永遠に夢の国だと思っていた自分は「生」の方向にだけしか意識が向いていなかったのだなと感じます。

ジョン・ファールの作品に原発を撮影したものがあったと記憶していますが死と廃墟を、ギリギリのところで制御している危うさのようなものを感じます。(見た当時はそんなことは感じませんでしたが)

ニュー・トポグラフィックスとして括られる写真家の作品は、死と廃墟を内包していると思うのですが…。
エム
2011/03/24 06:58
その建造物は何処にあるのでしょうか?

from 廃墟萌え
つる
2011/03/24 23:04

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