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zoom RSS うまし、うるわし・・・奈良・長谷寺

<<   作成日時 : 2011/06/05 00:00   >>

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今回のJR東海のTVCFは「長谷寺」か・・・
行きたかったなぁ・・・・と、悔しさが滲み出る。

今年3月14日。
15日の常楽会法要を聴聞するために、長谷寺さんにお願いして、OKをいただいて、でも、なんとか行くことができるか?と、早朝、駅まで出掛けたら、前日決定の計画停電を受けて、予告無しの全面運休!
駅のシャッターが、冷たくも下ろされていた。

その日に限って!だった。初日の戸惑いもあったろうが、それ以降は対応できていたはずだ。
ホント・・・「この日に限って・・・」だった。

その前に行ったときは、許可が無いということで、電話での門前払いだった。
ホント、門前の旅館からの電話だった。

どうも長谷寺には縁がなかった。

随分前に常楽会を聴聞したときには、風邪で頭痛に襲われてしまったし。

今回のポスターは「是非ともこれを写真に撮りたい」と思っていたものだった。

朝の御本尊様の前での勤行を終えると、ボーサンがみんな本堂の舞台に立って、長谷の自然に、あるいは空に、あるいは下界に向かって「密厳院発露懺悔文(みつごんにんほっとさんげのもん、と教わった気がする)」を大声で唱える。
これは強烈な印象を受ける。
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声明は、智山も豊山も、元は多分だいたい同じだったのが、智山声明の一部に「都節」という京都の文化が入って陰旋的になって、声の出し方も控えめになっているのに対して、豊山派のは「田舎節」という民謡の音階寄りで、音階的には古いものを残している部分もある感じがするが、一部は派手で大げさな演出が唱え方に加えられている部分もある。

この勤行など聴聞していると「なるほど、この地ゆえに、力強く、かつ派手になるのか」というのが分かる感じがする。

智積院を本山とする真言宗智山派、長谷寺を本山とする真言宗豊山派は、その昔、合わせて「新義真言宗」と言っていた。
根来寺を総本山とする「新義真言宗」というものも今はあるが、これはかつての名前が復活したもの。
(元は根来寺を智山・豊山が交互に守ってきたのが、その主に豊山側が独立したと聞いている)

高野山金剛峯寺の高僧だった覚鑁(興教大師)さんが、堕落停滞による真言宗没落の危機に瀕した(いつの時代にもボーズの堕落は問題になる!)真言宗の建て直しを計るも、保守派(金剛峯寺一派)と覚鑁派(大伝法院一派)による決定的な対立が生じて、覚鑁派は高野山を去ることになってしまう。
ほぼ「追放」である。

興教大師・覚鑁さんは、平安時代後期に大流行していた念仏思潮を、真言教学においていかに捉えるかを理論化した方でもある。師を密厳院と呼び、故に今我々は「密厳浄土」と言う。
これは紛れもない極楽浄土である・・と思う。

また、多くの書物を著した学僧でもあったので、それにあやかって智山の研究機関を「伝法院」という。
・・・んだと思う。

高野山を追われた興教大師・覚鑁さんは、無言の行に入られた。
・・・要するに密厳院に引きこもってしまわれたのだ。

その後、書き上げたのが「密厳院発露懺悔文」である。
堕落した僧侶への、強烈な批判に満ちている。

・・・・と、ここまで書いて、これを我々が読む、というのは「これは古義に対して言い放っているのだろうか?」もしかしたらそういう部分もあるかも知れんぞ・・・・と思ったのだが、いかがだろうか?

このポスターにあるように、長谷寺本堂の舞台から外に向かって叫んでいるのは、自分の心の叫びとしてでなく、もしかして追い出した高野山に向かって叫んでいる?!・・・と考えると面白いかも知れないぞ!

高野山を追われた覚鑁さんは、弟子たちと共に根来山に移り、根来寺を建立。
大伝法院や密厳院を移し、真言宗の正しい有り方を説き独自の教義を展開する。

1143年、覚鑁の死後、彼の弟子たちは一度は高野山へ戻るが、既に金剛峯寺との確執は深く、再び根来山に戻り、頼瑜僧正を中心として覚鑁さんの教学・解釈を基礎とした「新義真言宗」を発展させていく。

後に、根来山は。豊臣秀吉との確執の末に討伐を受け壊滅。
生き延びた一部の僧たちは奈良や京都へ逃れた。
豊山派は長谷寺に入り、智山派は智積院において、新義真言宗の教義を根付かせ、現在にいたる、という訳だ。

智山派の総本山智積院は、この天正13年(1585年)の秀吉による紀州征伐によって全山焼き討ちにあった根来寺の智積院を移した形になっている。

関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は、東山にある、豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた豊国神社の付属寺院だった祥雲寺という禅寺の土地建物を玄宥僧正に与え、智積院は、ようやくそこに復興した。

秀吉によって全山焼き討ちになった新義派の智山派は、その秀吉の土地と寺をいただいた、というわけだ。
故に、山号は根来の山「五百佛山(いおぶさん)」寺号を「根来寺」そして「智積院」となる。

・・・・あれ?長谷寺の話しから、智山派の話しになっちった・・・


実は、自分でもよく分かってなかったので、ちょっと、確認のために書きましたです。
間違いがあったらご指摘を。

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