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zoom RSS 中川寺成身院・実範を学ぶ・・・

<<   作成日時 : 2016/06/19 19:36   >>

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今回、急遽、日帰りの奈良行きは、実は、コレ、だったですよ。

「般若寺」さまのTwitterに・・・
講演告知「中川寺成身院の仏教空間とその意義」講師:京都大学大学院工学研究科准教授・日本建築史 冨島義幸先生 6月18日(土)午後1時30分〜3時30分 参加費無料(定員80名先着順)場所:奈良市手貝町会議所(東大寺転害門北100M)・・・というのが、あって、こりゃ行かにゃなるまいぞ!・・・と思ったわけですわ。

この「中川寺成身院」というのは、あの高野山・南山進流声明の元祖、ともいうべき、存在なのであります。

真言声明の流れを説明するときに必ずと言っていいほどに使われるのが・・・

久安年間(1145〜50 )に、仁和寺において、声明の流派を決めようという集まりがあって、そこで、次の4つが決まる。

・仁和寺覚性法親王の声明・・・・本相応院流
・能覚法師の声明・・・・・・・新相応院流
・醍醐寺定遍権僧正の声明・・・・醍醐流
・大和中川寺観験上人の声明・・進流


・・・というもの。しかし、これは金田一春彦博士が「おかしい」と仰っている通りだと思います。
これが書かれている『声訣書』という本が、かなりいい加減な本で、この内容も、この本にしか出てきません。
仁和寺古文書の中から、これを証拠づけるものでも出てこない限り、信用できる話ではありません。

しか〜し、ここに「大和中川寺観験上人の声明・・進流」ということが出てきます。
おそらく、南山進流のルーツに権威を持たせるために作られた話ではなかろうか?と思えるのですが・・・

この「大和中川寺」にいらっしゃった「観験上人」の声明が、進流の元祖、ということになります。
観験の師である宗観が、「大進上人」と呼ばれていて、その「進」を取って「進流」と言われていたようです。

やがて、高野山の第41代検校・勝心が・・・高野山が真言宗の本山でありながら、ちゃんとした声明が伝わっていないのはいかがなものか、と思われ、大和中川の慈業上人に送って、進流声明を高野山に移したい、ということになった、と。
・・・んで、高野山を「南山」と呼ぶことから「南山進流」となった・・・ということです。

勝心は観験の弟子。観験は宗観の弟子。宗観が・・・今回の公演のテーマにもなってる「実範(じつはん・じちはん・じっぱん)」の弟子なのであります。

実範・・・?〜1144。

若くして出家し、興福寺において法相を学び、また、横川・明賢に天台を学ぶ。
ある日、大和中川に遊び、その景勝地を朝廷に奏請して、一宇を建てて「成身院」と名付けた。
戒律の衰退。僧侶の堕落を遺憾として四律五論等を研鑽した。
戒は授受を尊ぶべきを知り、唐招提寺に行ったが鑑真寂後300余年、堂宇は荒廃にまかせ、住侶は一人もいなかった。
時に田を耕す僧に遇い、大祖の影堂を問い、持律の比丘を尋ねた。
その僧が戒光和尚より四分戒本を受伝したことを聞き、影堂において伝授を受けた。
尓来、戒律を唱導し四衆を教化した。
1116年、朝廷に奏請して唐招提寺の復興を計り、戒壇院登壇受戒の規則を作った。
また、鳥羽天皇に召されて、秘法を修するなど、修法伝授に努めた。
晩年は、光明山に住し、極楽往生を願った。


・・・以上『密教辞典』より抜粋。
『密教辞典』には、弟子の一人に「明恵」と書かれているけれど、明恵さんは、1173年生まれなので、被ってませんわな。

海住山寺のHPに「解脱上人特集」というものがあり、そこに、藤田依里氏の「解脱上人貞慶の唐招提寺釈迦念仏会の創始について」という寄稿があります。
その中に・・・
『招提千歳伝記』の「実範伝」に「殿宇荒廃」とあり、『唐招提寺縁起抜書略集』には、「ある夜、実範は唐招提寺から中川寺に銅筧が通ずる夢を見た。実範はこれを好相と思い、唐招提寺へ詣ると、伽藍は荒廃し、僧もおらず、庭は田圃と化していた」と伝えている。
多少の誇張はあろうが、中川寺の実範(1089年頃〜1144)が訪れたころには、それほどに唐招提寺は衰退していたのである。

・・・という記述がありました。

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講師の、京都大学大学院工学研究科准教授・日本建築史 冨島義幸先生。
「工学研究科」!!・・・です。
仏教とか文系の歴史ではなく「建築史」の方からのアプローチです。

醍醐寺にある膨大な「醍醐寺文書」の研究は、各方面から集まって定期的に行なわれているらしいのですが、講師は、建築学の方面から研究されていて、そこにあった「灌頂道場の指図」(指図、というのは、こういう風に作れ、というようなことを指示するような図)の中に、中川寺の物ではないか?・・・と思われるものが見られた。
・・・という研究をまとめられたということです。
それは、かなり立派なものだったとのこと。

講師の研究によれば『元亨釈書(実範伝)』などから、「実範」について、次のようなことがわかる。

1、始め興福寺で法相を学ぶ
   (実範が興福寺で学んでいた頃、興福寺の権別当は一乗院範俊。範俊は法相とともに密教を修めている)
   (範俊は小野曼荼羅寺の成尊から密教を学ぶ)
2、厳覚から真言密教を学ぶ
   (永久4年・1116年、小野曼荼羅寺(現・随心院)で、厳覚から真言密教を受法。
    範俊→厳覚→実範と、真言密教の小野流が伝わる)
3、明賢のもとで天台を学んだとき源信の流れをくむ念仏を受け継いだともいわれる
4、高野山の声明は中ノ川のものを導入した・・・『真言宗進流声明業血脈』
5、天仁3年(1110)、範俊にしたがい舎利守として後七日御修法に出仕
6、永久6年(1118)〜保安元年(1120)実範が後七日御修法に出仕した
7、興福寺・欣西の求めにより『東大寺戒壇院受戒式』を著す。
   →鎌倉時代の戒律復興の先駆者
8、高野山の教真からも受法『野沢血脈集』
9、勧修寺流の異流である中川流を形成

・・・と、こんなことが分かってくる。

奈良仏教から、真言密教を学び、戒を学び、浄土教も学んでいる、という、何でもありの方であります。

中でも驚くのは・・・我が真義真言宗の偉い人・・・頼瑜さんの『真俗雑記問答鈔』という物の中に・・・

「高野伝法院、中川成身院、是倶写青龍寺作法」とあるのだそうです。
これは、大変重要なことです。

「高野伝法院、中川成身院は、ともに青龍寺(空海の師・恵果阿闍梨のお寺)の作法を写したものである」ということ。
これは、灌頂の「しつらえ」を言っています。

ここまで話を聞いていると、さて、どうしてこの地に、そのようなキチンとした灌頂の設備があったのでしょう?

奈良・平城京は、平安京遷都クンにより、「置いてけぼり」の都となります。
荘園を管理するのが主となりますが、都も廃れ、お寺も廃れてゆきます。
平安京では、弘法大師が持ち帰った真言密教の修法が中心となって、国家(宮中)を支え、国を守ってゆきます。

国の支えがあって最澄さんは唐に渡り、天台山に登り、天台の教えを勉強し、密教も一部を持ち帰ったものの、帰ってみたら、後から戻った空海さんの密教が、平安の世には受け入れられたのは意外だったでしょう。
最澄さんも、真言密教の門下に入る必要に迫られ、空海の弟子となります。

それほどに、真言密教の修法は尊ばれたのです。

それまでの、奈良の寺院は、学問の寺であり、国家鎮護の祈願もやっていましたが、真言の修法は極めて具体的であり、強い魅力があったのだと思います。

奈良の寺院と対立した最澄さんと違い、東大寺の別当にもなり、東大寺内に「真言院」など建てている空海さんは、おそらく、東大寺などを密教化していたのだと思います。

空海さんは、『十住心論』の中で、第9住心として「極無自性心」をあげ、 これは大乗仏教のうちの「華厳宗」の境地であると言っています。
真言の境地に一番近いものだと仰っているわけです。
華厳での「毘盧舎那如来」は、大日経では「毘盧遮那仏」と表記される、まさに大日如来そのものであります。
そういえば、鑑真さんが開創した唐招提寺金堂の中尊も「なんで?」という感じですが、毘盧舎那仏、ですな。

今も、東大寺のボーサンは、真言の「四度加行」をして、灌頂もすると聞きます。
よく見たことはないのですが、何度か見て薬師寺の修法は、かなり真言に近い物でした。

もしかしたら、東大寺のすぐそばに本格的な灌頂の壇を持った寺があったということは、そういう需要があったということで、もしかしたら、それは、奈良の寺院のボーサンが、真言の修法をするために真言の灌頂を受ける、ということがなされていたのではないか、と想像します。


・・・続く・・・





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2017/05/15 08:24

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