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<<   作成日時 : 2017/05/02 00:00   >>

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「学而不思則罔 思而不学則殆」

学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」・・・である。
漢文の授業で、唯一といっていいくらい、心に刻んだ言葉だ。

学ぶだけで考えることをしなければ、学んだ知識を生かすことができない。
また、考えるばかりで学ばなければ正しい判断ができない。
知識を得ることと、それをもとに、どう考え、どういう結論を得るか?・・・である。
それは必ずしも「結論」である必要はないけれど・・・その時の、最良の考えとでも言えばいいか。

これは言い換えれば「情報収集」と、「情報処理」とも言えるかと思う。

ノーミソに情報・知識を溜め込む。まさに、パソコンのデータと同じ。
それは、考えるための材料を沢山入れるということ。
情報の選び方にも大切だが、できるだけ多い方が良い。

それもとに、考える。
情報をどう利用するか。・・・処理するか、である。
捨てるか?、切り取るか?、繋げるか? 足りなきゃ補充する。
その処理の仕方こそ重要。

処理の仕方そのものも大切だが、処理の仕方も「学び」によるところもある。
知識(情報)がなければ、処理(分析)もできない。

これが「情報収集」と、「情報処理」との関係。
これこそが「思考」なんだと思う。

今、自分は、この谷間にいる感じがしている。

思いはあるのだが、言葉が見つからない、というジレンマを感じている。
情報収集と情報処理が上手くいっていない感じ・・・が、する。

言い訳になってしまうのだけれど、まとまった本を読む時間が無く、情報収集が上手くゆかず、また、じっくり考える時間も無い。
・・・そんな感じ。

我がノーミソは、今まさに写真のような感じなのである。グチャグチャ・・・(-_-)

実は、今、痛切に感じているのあは、言葉を見つけにくくなっている、ということ。
加齢によって?・・・ノーミソのレスポンスが落ちてるのだろうか?・・・この問題が大きいことを実感している。
もともと高くない性能が落ちるのは、困る。
妙に焦る・・・。
ボケたく、ない。

最近、ちょっとまとまった論文を書いたのだけれど・・・

そもそも、論文を書こうと思う時は、自分が、色々本を読んだり、考えたりを繰り返しているウチに、新たな事実などが見つかった時だ。

そこへ至る過程では、色々考え、それに関する知識を求め、蓄え、それを処理する。
まさに、「情報収集と情報処理」ということが、自分の頭の中で繰り返し行なわれた結果、見えてくるモノがある、ということだ。

短期間に論文を書くことを通して、この情報収集と情報処理、ということを実感した。

実は、ここに、仏教の瞑想がある。
ワタシは、フィジカル禅、フィジカル瞑想、ということを思っている。
夏のプールでひたすら、ゆっくりした平泳ぎを続けているときとか、ウォーキングをしているときとか、昔は、ジョギングしているときに、良いアイディアが生まれることが多かったのだ。

・・・・・・

どのような環境に生まれ、どのような生き方をしたかでも、ノーミソの思考は変わる。
判断も変わる。

・・・それが「個性」といえるだろう。

どんな本を読むか、どんなテレビをみて、ラジオを聴いているか?ということでも、情報源が違うし、その積み重ねが、個性になるという面もある。

例えば、昔の「朝まで生テレビ」などに出てくる人たちは、それぞれのイデオロギーで凝り固まっていて、自由な発想が出来ていないなんじゃないか?と思ったことがある。

ネットにも、我がFacebookのタイムラインにも、右向き、左向きの人が書き込んでいる。
そういうのは、自分を縛っていることにならないか?
そういうのは、ツマラナイことだと思う。
初めに、自分でフィルターをかけて自由な思考ができないようにしてしまうのは、つまらない、でしょ、と思う。

よい思考をするためには、こういった観念は邪魔になる。
観念に縛られていては、良い思考ができず、良い結論も導けない。

「朝まで生テレビ」などでは、それこそ、「声がデカイ」「強引に自分の話をする」というような人の意見を聴いてしまいがち、ということもある。

さて、ネット社会においては、この情報収集は、とてつもなく簡単になった、という面もある。
気がついたらパソコンがあり、スマホがあり、いつでもどこでも即座に「ネット検索」という人たちは、ネットにある情報を「真実」を思って信じがちなところがあると思う。

ワタシもよく引用させていただくWikipediaだって、自分の専門分野で検索すると、間違ったことだらけだったりする。
ワタシは、自分の知らなかったことに関して、あるいは、調べるのが面倒な時などに、客観的事実と思えることを、いちおう「Wikipediaにはこう書かれている」という気持ちで引用させていただいております。
必ずしも、それがすべてで、正解ではない、という意識は持っているつもり。

この一見簡単になってる情報収集だけれど、これを単純に検索してヒットしたところだけを信じてしまう傾向があるのではないだろうか?
沢山の情報をネット検索という方法で「使いこなしている」という錯覚を持ってしまいがちだけれど・・・逆に振り回されているのだと思う。

もしかすると、それを「コピペ」して自分の意見にしてしまっているようなものも見受けられる。
検索してたまたまヒットしたもので、もっともらしいものを自分の中に無批判に取り入れてしまう、ということがあるのではないだろうか?
コピペだけで、自分の思考になっていないという感じ。
情報は、咀嚼し、自分のものにする、ということが重要なのだ。

実は、この「批判」ということもむずかしい。
これは、訓練だと思う。
先ずは、否定的な目で見る。それをすることで、情報を客観的に見て、良い情報かそうでないか、ということを見極める目が必要である。

そして、色んな味方の意見を取り入れて、自分なりに良い方向を見つけ出す、ということを続けてゆくことで訓練されるものと思う。

最初の「学びて思わざれば則ち罔し(くらし)」は・・・

ただ学ぶ、ということがありうるのか?・・・と思うが、まあ、例えば受験勉強がそうなのかも知れない。

思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)
・・・情報処理の難しさ、だと思う。

近年のネット上には、情報を処理できていない意見も見受けられる。

・・・いや、その前に「良い情報を集めていない」という向きもある。
ネット検索で得られた「知識」には、残念ながら、清濁併せ持っている状態だと言える。
その「清」と「濁」とを見極める目、というものも重要。

所謂「ねとうよ」と呼ばれる人たちや、中・韓あたりを避難する言動、原発反対のムーブメントさえも、ネットが生んだ「思考の歪み」に思えてならない。
キチンとした、情報収集と情報処理が出来ていない人たちが、流されているように思えてならない。

そういったコピペの情報を、あるいは、逐次の検索で蓄えになっていない情報を「知識」と思い込んで、自分は知識がある、という錯覚を持っているネット民が多いように思える。

Twitterなどという、一見お手軽なアイテムが、ちゃんとやろうとしたら大変難しいことなのに、それに気づかずにお気楽に使ってる人が多い。
お気軽でいいのだけれど、中には、真剣に立ち向かっている人もいる。
それを読めない人が多い。
言葉尻を捉えてイチャモンつけてる人も多い。
稚拙な揚げ足取りだ。

思わぬ発想があったりもする。
それが、良いモノであたりする発見もあるが、よくないモノもある。これが多い。

また、書くことができない人も多い。

以前記事にした、東本願寺の撮影禁止の記事を取り上げて、Twitterに書いてきたヤツのことを記事にしたけれど、アレはボーズが書いたものだ。
それなりに読んだり書いたり話したりしてるんだと思うが、Twitterの文はまるでなってない。
意見にもなっていない。
ああいう、読めていない、書けていない、という連中が、Twitterなどを使って、言いたいことを言ってると勘違いしていることも多い。

思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)・・・である。

読み書きの基本ができてないのが多すぎる。

繰り返す・・・


学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」・・・なのだよ。










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