「お寺のこれから」について考える(その4)宗教的過疎の問題

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これも以前の記事に書きましたが・・・

戦後に、田舎から都市部へ出て行った人たち・・・。
いわゆる、団塊の世代と呼ばれる人たちが中心の人たち・・・。
集団就職に代表される人たち・・・。

戦後の経済・技術の発展を支えるべく、商業・工業の礎になるべく、田舎から都会へ出て行った人たちが沢山いました。

この人たちは、やがて家庭をつくり、都市、あるいは都市の周辺に「新しい家(=家族ということでもあります)」を作った人たちです。

この人たちには、実家の宗教はあるものの、独立したほとんどの家には、仏壇もお墓も無い人たちだと言えるでしょう。

当然ながら、この人たちは、宗教をもたず、下手すりゃ「ウチには先祖はいません」と言っちゃったりするのであります。

その「家の文化」の継承も無く、まさにソコから、その家の文化が始まるわけです。
二人の夫婦によって、その家のルールが作られて、その家の文化になってゆくのです。

その家においては・・・
その子供たちも、仏壇に手を合わせるという「教育」もされず、宗教が習慣として、あるいは、生活の必然として存在せず、宗教的に全く無垢であるわけです。

当然のように家に宗教が無いので、宗教というものに対する感覚も「古くさいもの」だったりします。
親の代もそう思っている可能性が高いと思います。

それは、具体的に思っているわけではなく、多くは、自分が馴染んでいない、という理由から、単にアバウトな感覚で「古くさいもの」という突き放した感じを思うのだろうと考えられます。

都市部・市街地などで「増えた所帯数・人口」というものは、主にこういった人たちであるわけです。

また、こういう人たちが、新興宗教に流れても行くわけですね。

大人になると家を出て独立する、ということも、この「戦後の移動」に由来するものであると思います。

ここから日本の「家」の意識が変わってしまったのでしょう。
「家制度」の崩壊というものは、ここに確かにあるのだと思います。

しかし・・・・

同時に、よく「檀家制度の崩壊」ということも聞きますが、これは違うと思っています。

もともと寺壇関係が無かった人たちがいた、というだけの話しです。
それまであった寺壇関係が壊れた、ということではありません。

増えた人たちは、新しく家を建てた、あるいは、新しく家族を作った人たちだということ。
そういう人たちが増えていた、ということです。

寺壇関係がない人たちが「実は、既にイッパイいたのだ」ということです。

この人たちは、もともと宗教に疎かったわけで、当然、寺との関係も無かった人たちです。
そういう寺壇関係の無い人たちがいたのだ、ということが顕わになっただけです。

ただし、例えば、葬儀をする人の全体数から、寺壇関係を持っていない人を割り出せば、寺と関わりが無い人たちの割合が増えているでしょうから、寺壇関係がない人が増えているという相対的な意味から考えて、寺壇関係が少なくなっている、ということは言えるのかも知れませんが、やはり「崩壊した」という言い方は、正しいとは言えません。

都市部、及びその周辺においては、この「新しく家を作った人たち」ばかりが多数いて、元々の檀家さんは減ったりして、田舎と同じような過疎になっている寺も多いのだと思います。

学校に行く子供がいなくなって、都心の学校が閉校になるように・・・。

私はこれを「宗教的過疎」と呼ぶことにします。

例えば、特に都心の寺などは・・・「人はイッパイいるのに、だれも寺に見向きもしない」・・・というような感覚になるのかも知れません。

そういう人たちが、この宗教的過疎を実感して、不安になるのかも知れませんね。

後で書きますが・・・
こういった「寺の前を通り過ぎる人たち」を何とかして取り込んでも、それは一代限りということが多く、都市部においては、全てが文字通り「一過性のお付き合い」ということになるんだと思います。
そういうことを前提としての、寺の「経営」というこになるんだと思いますよ、松本紹圭さん・・・。


さて、そういう宗教的に無垢な人、特に「新しく家を作った人たち」の子供の世代、孫の世代の気持ちを、寺に向けさせるのは容易なことではないでしょう。

今回の智山総合研究会・智山教化センターの分科会においてのテーマだったわけですが・・・
どの講師も、智山教化センターの人間も、そのテーマの具体的なことには(考えて無いのか?という程に)至らず、建設的な意見は無いままに終わってしまいました。

特に、智山教化センターの人間(司会)の全くの力不足で、まとめられずに終わってしまいました。
講師も、テーマを理解していなかったようで、具合的な方策など、まったく無いままの終了で、やらなくても良かったんじゃないか?という感じ。

ただ、もうひとりの講師である(宗教学者)内藤理恵子氏の話の中に・・・

「最近の若い人たちは、スマホが当たり前で、なんでも、すぐ検索するということが身についていて、逆に、検索できないと不安になるので、HPとかは作っておいた方がいい」というような指摘がありました。

これも、改めて言われるようなことでもなく、わかりきったことであります。
しかし、それが本当に意味があることかは、別問題。
この人の話には、松本紹圭氏以上に内容が無いよう・・・だったので、ここで改めて取り上げる気にもなれませんでした。

例えば「Yahoo!の知恵袋」なんていう、どーしようも無いモノがあって、間違った答えが平気で書き込まれていて、直したくても「解決済み」で直せない・・・なんてものもあります。

私などは、検索で引っかかったらいいな、と、チョビットは期待しながら、このブログを書いたりしています。

この程度のことで良いと思います。

また、ブログに書いているのも、ネット世代の子供たちには「匿名」の方がいいんじゃないか?という読みもあったりします。

ウチの寺からの発信に関しては、デジタル&アナログを交えた形で、ただいま「考えちう」です。

そもそも「寺院の活性化」というコマンドと同様に、初めに載せた、教化センターの能書きにある「青少幼年教化」なんてものが必要なんでしょうか?

これは・・・

アフリカに降り立った靴屋さんの営業が、靴を履いていない民族を見て・・・
「全員に靴が売れる」と思うか・・・
「ダメだ、この国の人は、靴を履かないんだ」と思うか・・・ということだったりするのかも知れません。

「ダメだ」と思う私が間違っているのかも知れませんが・・・

青少幼年を教化してどうするの?
・・・これは、ウチらの跡取りにするための「教育的指導」は必要?・・かも知れませんが (^^)

さて、一般の子供たちに教化をするということの必要性を感じません。

一般の道徳的指導、ということはアリなのでしょう。
学校の道徳ではなく、宗教的な考えに基づく道徳教育、という面はあっても良いでしょう。

そういう環境を作る事は難しいですが、価値はあるのかも知れません。


ですが・・・

私は、人が亡くなった、ということを切っ掛けに仏教を知って貰う、ということで良いと思っています。


通夜の時によく話させていただくことですが・・・

いま私たちが使っている暦・・・西暦は、イエス様が生まれた年から始まっています。

もとから仏教国といわれる、仏教が中心の国では、お釈迦様の暦「佛歴」というものを使っています。
佛歴は、どこがスタートかというと、お釈迦様が亡くなられた年がスタートなんです。

お釈迦様は、最期に、その身を以て「命には限りがあるのだ」ということを教えてくださったのです。

お釈迦様のような方でも亡くなってしまうんだ、ということを皆が知り、命というものを考え、その限られた命を生きる、ということを考える・・・それが、仏教のスタートなのです。

葬儀に際して、家族・親族、会葬者が一様に感じているのは、その時のお釈迦様のお弟子さんたちと同じことです。
命には限りがあるのだ、ということを故人から教わっているのです。

ここを仏教を感じるスタートにしていただく、ということで良いと思うのです。

そこで、読経や、法話などから感じていただければいいのだと思います。

だからこそ、葬式仏教は大事なのであり、良い読経、良いご詠歌の奉詠、良いお話ができるように努力しなければならないんだと思うのです。

仏教は、まず、理屈ではなく「体験」だと思います。

仏教を体験し、仏教を知るスタートになる、通夜・葬儀を、キチンと、できれば宗教的な意味を感じられるように。
可能であれば、宗教的感動を感じていただけるように、頑張る・・・それこそが世代の垣根を越えた教化になるんだと思うのです。

だからこそ、葬式仏教で良いのです。

だからこそ、葬式仏教を大切にしなければならないと思っているのです。









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この記事へのコメント

茉莉花
2014年06月20日 23:36
私は葬式仏教というのには抵抗があります。
元々仏教は、生きて居る人間の為にあるものであり、人間として如何に生きるか、真理とは何かを探求する為のもの。
信仰ではなく、哲学と私は考えます。
本当なら、彼の世で成仏というのも、おかしな話。
女性が成仏できないという教えもおかしい。
誰だって切っ掛けがあれば、いつだって成仏出来る。
その切っ掛けとは『気付き』です。
成仏と言っても、成仏という言葉は単なる飾りの様なもので、本質は『完成した人格を持った人間に成る』という事。
本来目指すべきはここなのです。
本来の仏教とはこうでなくてはならないと私は考えます。
六道輪廻も、地獄も極楽も、彼の世の事じゃない。
我々の心の状態次第でこの世は、地獄にもなるし、極楽にもなるし、天・人間・畜生・修羅・餓鬼にすらなる。
皆、彼の世の事だと思っているけど、本当は自分の心がその世界を形作って居るだけ。
来世なんて、解脱してしまえば、そんなものは存在しない。
来世というのは、自分の存在に対する執着から来るものと私は思っています。
僧侶になれば、仏道なのではない。
在家だろうがなんであろうが、人間として崇高な精神を持っているなら、それこそが真の仏道だと私は思います。
三日ボーズ
2014年06月20日 23:47
茉莉花さんお仰ることにも、色んな考えの混じりがあるようですが・・・
私はそんなことは分かった上で、言っているのです。よく読んでくださいな。
そういう「理屈」は、百も承知の上で、そういうことは、実はど~でもいい、というのが、日本人の底辺にあるのではないか?・・・と。
それはいい加減なものではなくて、日本民族の根底にあるものだと思うのです。
三日ボーズ
2014年06月20日 23:48
ちなみに・・・私は・・・「本来の仏教とはこうでなくてはならない」ということは絶対に申しません。
その場にいた者ですが…
2014年07月01日 02:04
その場にいた者ですが、
内藤理恵子氏は松本氏の発表の前に
かなり長く発表されていましたが、
このブログに書いてあるような主旨のことは
まったくおっしゃっていませんでした。

ネット世代に有効な布教方法をいくつも具体的な事例を挙げて
説明していらっしゃいましたよ。
このブログ記事ではネット世代とは
どのような世代か?という概要の部分を
膨らませて勝手に批判しているように見受けられ
見ていられないのでコメントさせていただきます。

それから、「葬式こそ大切」という話は
内藤理恵子氏が当日配布した資料に書かれていたことではありませんか。
私も資料をいただいたので手元にありますよ。
彼女は発表の最後にデータを挙げて
葬送の実態をあきらかにしており
会場内全体に拍手がおこっていたのを覚えています。
あなたは本当にその場にいらっしゃったのか?疑問です。

内輪の会だと思って事実を曲げてブログを書くのは
やめたほうがいいと思います。
その場にいた者ですが…
2014年07月01日 02:26
さきほど書き込みをさせていただいた者ですが
その場にいた者として、やはり見過ごせないと思いましたので
このブログ記事がそのままなのであれば
教化センターに連絡しようと思っております。
三日ボーズ
2014年07月01日 07:09
その必要は、ありません。
この内容は、そのまま教化センターの送るつもりでおります。
三日ボーズ
2014年07月01日 08:28
その場にはいなかった者ですが・・・
あまり、馬鹿なことを言わないでください。最後に拍手をするのは礼儀的にもされていることでしょう・・
いちおう、録音したものを全部聴いております。
なにか、誤解されているようですが、内藤理恵子氏のお話は、取るに足らないものだったので、ここで引用した以外、触れておりません。
なので・・・
>このブログに書いてあるような主旨のことは
まったくおっしゃっていませんでした。
・・・とうのは、誤解であります。
あなたは、あのお話にご満足ですか?
満足だ、というなら、それで結構です。

私は、事実を曲げて書いているのではなく、持論を展開しているだけなんですが。
そういう風に取っちゃう人がいるんだ・・・と、反省もいたしまする。

三日ボーズ
2014年07月01日 08:33
あ、内藤氏のレジュメ、というより、連載のコピーですね。
「葬儀が大切」ということは、後で、教化センターの人が言ってましたが、どちらも観点が違うと思ったので、持論を展開しております。

なので・・・
>内輪の会だと思って事実を曲げてブログを書くのは
やめたほうがいいと思います。

・・・これは間違っております。
やはりそうでしたか…
2014年07月01日 09:09
やはりそうでしたか。
その場にはいらっしゃらなかったんですね。
内藤氏の発表はパワーポイントの情報を見ながらでしか理解できません。

録音だけを後から借りて
あたかも「その場に参加したかのように」ブログを
書いていらっしゃるとは言語道断です。

>>最後に拍手をするのは礼儀的にもされていることでしょう・・
これこそあなたが参加されていない決定的な証拠ですね。

対談(鼎談)の最後に内藤氏がしたコメントで
話の流えが大きく変わり
(もしかしてその部分は録音に入っていませんでしたか?)
自然発生的に会場全体に拍手が起こったわけで、
決して礼儀的な拍手ではありませんでした。
最後の1分程度で流れが覆されてとても盛り上がりました。
これはその場に参加されていないと理解できないでしょう。
研修会の後には内藤氏のもとにかけよって
握手を求める僧侶もいました。
いずれにしろ、その場にいなかった人にはわからないことです。

>あ、内藤氏のレジュメ、というより、連載のコピーですね。
>「葬儀が大切」ということは、後で、
>教化センターの人が言ってましたが、どちら
>も観点が違うと思ったので、持論を展開しております。

おそらく、内藤氏があなたの借りてきた
録音外のところで言っていたことを
教化センターの人が伝えたのだと思います。

結果、ここで書いてあることは
内藤氏の発言の引用のようになっています。

他の記事も読みましたが、研修会の時に内藤氏が発言したことを
あたかも自分の考えであるかのように
引用されている部分がありますよね。
いずれにしても
2014年07月01日 09:09

いずれにせよ、その場に参加せず、
録音を聞いたのみで
あたかも参加したかのようにブログを書き、
さらに内藤氏の発言は「とるにたりない」としながらも
発言を我田引水とは悪質な行為だと判断したので
教化センターのほうに連絡します。
三日ボーズ
2014年07月01日 09:14
参加していない、ということは、始めの方の記事に書いております。
また、もった前の記事を読んでいただければ、持論が我田引水でないことは分かっていただけると思いますが、その気は起きないでしょうね。
三日ボーズ
2014年07月01日 09:15
>教化センターのほうに連絡します。

じゃあ、当方から送る必要はないわけですね。
もともと教化センター宛に書いているつまりなので。
ブログはいつも読んでいます
2014年07月01日 09:38
あなたのブログの過去記事は読ませていただいております。
正直、研修会の内容よりも、ずっと
「とるにたりない」ものだと思っています。

これまでコメントを書かなかったのは
コメントを書く価値がなかったからです。

ブログとはいえ評価に値するものであれば、
それ相応の講演会なり
(それこそ研修会の講師も)
執筆活動の機会が舞い込むはずです。
その依頼がご自分に来ないということはどういうことだか
おわかりでしょう。
ご活躍を心よりお祈り申し上げます
2014年07月01日 09:45
ちなみに、あなたのブログには
「発表は松本氏から」と
書いてありますが、
正しい発表の順番は、内藤氏→松本氏の順番でした。
それすらも確認していないのですか?
順番をそのように間違えて記されているということは
内藤氏の発表の冒頭は
録音されていなかったのではありませんか。

たしかに松本氏の発表に関しては
あなたの意見に同意ですが…

あなたのブログが取るに足るレベルに達し、
結果、教化センターや他の講演の話がまいこみ
発表者の揚げ足取り
(しかもその場に言って質問をする度胸もなく
録音を後から聞いてネチネチと粘着発言・笑止千万)
する暇が無くなるほど
あなたが成長し、活躍されることを大いに期待しています。
三日ボーズ
2014年07月01日 17:22
・・・終わった?(^^)

あのね、文句言うならもっとちゃんと言ってくんない?
あなたの程度が知れちゃうよ。
もっと、ちゃんと考えて書けるようになったら、また来てね♡
お・ば・か・さ・ん (^o^)

最後に一言・・馬鹿野郎!ふざけんじゃね~よ!

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    Excerpt: ・・・って、個人攻撃だす。(^o^) ネット上の「架空の人物」への、で、醜い内容なので、コメント氏以外は、読まなくていいです(^^) Weblog: 倫敦巴里 racked: 2014-07-27 10:04