忌中と、喪中と、お正月と・・・

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昨年暮れ、護摩札を書いていたら、数日前に葬儀をされた故人の名前での申し込みがされていて、故人が存命中に書かれたのか、それとも、家人が代わって書かれたのか・・・

どちらにしても、そのままではイケナイので、名前を喪主だった方に替えて、書いておいて、四十九日が過ぎたら取りに着てください・・・という判断をしました。

でも、これで良かったのか・・・?

「喪中」というものと「忌中」というものがあります。
似たようなもの、という感じですが・・・

実は、喪中の概念は・・・というか、定義がハッキリしていないんだと思います。

忌中は決まっています。
四十九日です。神道では50日。
ですから(どっちにしても)50日を過ぎれば「忌明け」となるわけです。

この神道の「50日」とうのは、仏教の「四十九日」からきたのかもしれません。

これも、定義しようとするとよくわからないものだと思います。

もともと「忌み日」ということは平安時代からあったようです。
たとえば、朝起きて、暦を見て、今日が「忌み日」だったら、一日外に出ないで、写経とかしている・・・というように、風水に支配されていた平安貴族の間では、暦の上の忌み日、というのがあったわけです。

そこに「死の穢れ」という概念も加わります。

落語に「奈良の人は早起き」なのは、朝起きて家の前に鹿が死んでいたら大変なので、早起きして、鹿の死骸があったら、すぐにどけなければならないから、奈良の人は早起きなんだ・・・というのが、あったお思います。
(同様のことが「生類憐れみの令」の江戸にもあった、という話もあったような・・・)

これは、鹿が神様の遣いというだけでなくて、それが何であっても「死の穢れ」は避けなければならない、ということがとても重要なことだったのです。

「死穢」は「移る」のです。伝染するのです。
それも100パーセントの力を持ったまま、移る、ということなのです。
例えば、手足がもぎれたような死骸は特に死穢が強い、というものだったとか。
とにかく、人々が避けねばならないものの第一が「死の穢れ」だったということです。

なので、一般の人はおろか、我々僧侶も遺体に近づくことはなかったということ、つまり、葬儀はしなかったのです。
平安時代まで(つまり真言&天台)は、国家(玉体=天皇)安穏などを祈願するものだったので、死穢に触れて、その呪力が落ちてはこまるわけです。

これは、奈良のお寺を見れば分かります。
律宗は微妙ですが(律宗の僧侶はいち早く葬儀をしたという説もある)、東大寺の華厳宗、薬師寺・興福寺の法相宗は、今も葬儀をしないはずです。
華厳宗は間違いなくしません。
それどころか、寺の法要に、家人が亡くなって四十九日が過ぎていないものは、参列できません。

法要に参列する一般の人も、本来は、忌明けになっていない人は遠慮するべきことです。
四十九日が過ぎていない人は、例えば、お水取りの二月堂内に入るのは、本来まかりならん、というものなのです。そこまでアナウンスはしていませんが。

私は、弘法大師・空海さんも、おそらく、葬儀はしていなかったし、死穢を避けておられた側であろうと考えています。
宮中に「真言院」という建物を造り、法会(特に祈願)をしていたのですから、死穢は避けなければならなかったはずです。
平安時代は、そういう時代だったのです。

平安時代、葬儀などはされず、それどころか、遺体は捨て置かれてようです。
僧侶も例に違わずです。

それは辛い、ということで、葬儀をキチンとやろうよ、というので生まれたのが、平安時代に天台僧25人が集まって始めた「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」という念仏結社です。

そこから、浄土僧・律僧、禅僧などが、葬儀を始めたということのよう。
同時に、僧侶が葬儀をすれば、死穢は無い、という認識もされるようになってきます。

「ある僧侶が神社に参拝する途中で死人に会い、それを弔ったことを神様も喜び、参拝を許された」・・・という話が出来上がってくるのです。

そこで、葬儀を僧侶がすればいい、という共通認識が生まれてきたのでしょう。
そして、そういうプロセスを踏めば、死の穢れを怖れることはない、ということになったわけです。

そういう共通認識になるまでに、かなりの時間を有したわけです。

そうやって、葬儀を主に仏教でやる、ということになったわけです。
葬儀から、やがて33回忌まで延ばされた、その時間が「弔い」ということで、それが「霊鎮め」ということになったのです。その33年間を仏教で葬儀をして、供養をする。
そういう役割分担をしたわけです。

「忌中」というのは、それこそ、葬儀を出した家が「引き籠もって」外界と隔離される、というものでした。
それは、家族は死の穢れに触れたので、それは伝染するから、外との交渉を断つ、ということでした。

その「忌み日」と、仏教の「中陰」という考えが合体してできたのが「忌中」だっ、ということだと思います。


・・・続く・・・







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この記事へのコメント

通りすがり
2015年12月26日 01:06
詳しくは失念しましたが、宮坂猊下が編集した不動信仰事典だかお不動さまの話だかに、青森に伝わる話だったかな?ある僧が葬儀から帰った日にお不動様の修法をしたら、お不動様が穢れに大変お怒りになり、僧は偉い目にあった…みたいな昔話が載ってました。

先日、北の湖理事長の協会葬では川崎大師の藤田猊下が大導師で職衆も川崎大師の面々16名がずらり並んでいましたね。
川崎大師は僅かに檀家さんや墓所もありますが、現代でもバリバリ祈願寺の僧侶や聖天行者などは一般人の葬儀は避けたほうがいいんじゃないかと思いましたがどうでしょう。
三日ボーズ
2015年12月27日 13:59
お不動様はそんなヤワな存在では無い!と思いますが・・・

記事にも書いたように、僧侶が死者を弔い供養することは神様も喜ぶことである、というお話がいくつも作られているので「僧侶が葬儀をする必要性」というような、時代の要請があったのかも知れません。
そこから、僧侶による葬儀が当たり前となってゆきます。
そういうことが、教義とは別のところで広まり定着していったようです。
それによって、祈願寺でも、葬儀をして構わない、ということになっているんだと私は思います。
しかし、弘法大師の頃に遡ると、それはイケナイこと、ということになるのでしょう。
また、奈良の寺から見れば、いまでもオカシナことなのかもしれませんが・・。

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