Amazon「お坊さん便」に思う・・・

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私がお葬式をするようになった頃、確か農協のホールは無く、でも、農協の葬祭部門はあったのか、自宅葬を取り仕切ったり、司会などをしてやっていましたが・・・

程なくして、ホールができ、はじめは通夜を自宅でやって、葬儀をホールでやったりしていました。

それから、どんどんホールができました。

農協が作り、葬儀社から独立して始めたり、仏壇仏具店やら、花屋さんが始めたり・・・
人口分布を見れば、今後、いわゆる「団塊の世代」の方たちの葬儀が増えることは誰でもわかったことです。

その頃思ったのは・・・「葬儀は増えるけど、寺は増えね~よな~」・・・ということでした。

菩提寺の無い方の葬儀をすることが多くなり、このまま増え続けたら、我々も大変なことになる、と思ったものです。
お墓も同様、ということは、前に書きました。

その兆候は、当然ながら、東京などの首都圏において、既に顕著で、ホール葬にしても、何にしても、ちょっと遅れて我が方に来る、という感じでした。

ある、大手葬儀社が「僧侶の紹介」ということを営業内容に掲げ、契約したボーサンに頼んで葬儀を行ない、後の法事をやらないために、困った家族がお寺にくる、ということが何件も起き、仏教会で抗議したのは、もう、十数年前になるでしょう。

そこで思ったのは、菩提寺が無く、葬儀の進め方がわからない人たちが増えている、ということでした。
そのため、そういうおかしな進め方を葬儀社からされれば、何もわからず、それに従ってしまうんだよな~、というです。

この檀家さんと菩提寺、というのは、基本的に、明治の政策を乗り越えて、ご先祖様でつながっている関係です。
その関係によって寺も成り立っている訳ですが、それは、菩提寺を持たない方には通用しない、ということをもっと早く我々は認識する必要があったのだと思います。

既に時代の先を行っていた首都圏などのお寺とかが、そういうことを考えず、法外とも思えるお布施を求めて問題になったり、我々だって、葬儀は増える、という状況にあって、足下を見ることをしないで、ただ、旧態依然としたまま、流されている。・・・そんな状況になっていました。

かつて、団塊の世代を見込んだ葬儀社の増加がありました。これは、葬儀の増加を予想してのことですが、首都圏を中心に急速に「菩提寺を持たない方」の葬儀の増加は「小さな葬儀」になる、ということまでは、私も予想
できませんでした。

元々の土地から離れ、親戚からも離れ、兄弟はそれなりに多くても、子供が少ない・・・そんなことで葬儀の参列者が少ない葬儀が増えてきた、というのが、近年への流れです。

このような人たちは、寺で葬儀をして檀家になったとしても、三代続くことはないと思えます。
それどころか、この人たち(両親)が亡くなって、子供の代になった時まで、檀家さんと菩提寺の関係は無くなることのほうが多いのではないか?と思っています。

「一代限り」ということが多くなるのではないでしょうか?

自分の墓が無い、ということに気づいて、かつて、バブルの頃に競うようにお墓を求めた方たちも、子供や孫がそのお墓を守るということの具体的なイメージはできていなかったのではないでしょうか?

宇都宮で昭和50年頃にできた大規模な霊園は、かなり「空き」が目立ってきましたが、それでも、思ったよりはお墓が保たれていると感じます。
「お墓を守る」という気持ちは、やはり、大きいのだと思えます。

しかしながら、自分のお墓を考える方のイメージも、かつてのバブルの頃とは違って、具体的になっているかのようでもあります。

東京の小平霊園が始めた合葬形式のマンホールみたいな墓地の抽選の倍率が高い、というように、継続しない墓、というイメージもできてきなのかな?と思います。

お墓の前に、お家がそうだったわけです。
実家を出た人たちにとって「自分の家を持つ」ということが理想であり、目標であった訳ですが、その家も「続かない」ことの方が多いわけです。

戦後の経済成長でできた大型の住宅地は、どこも「高齢化」しています。
子供は出て行って、老人だけの住宅になっています。

名古屋に住む叔父の所もそうです。
周辺でも、かなり早い時期に開発された「ニュータウン」ですが、叔父もご近所と碁を楽しむような、そんな感じ。
幸い、叔父の所は、奥さんが亡くなられてから、息子の一家が住み始めた、という、ありがたい状況ですが、そういう環境は希だと思います。

「家も、お墓も、一代限りの物」・・・戦後の成長の結果至った、日本人が初めて経験する状況になっているわけです。

こういう状況の中で、昔からの檀家さん、という考えも、当てはまらないのではないでしょうか?

「嘆かわしい」とか言ってる状況ではなく「葬儀も檀家さんも一過性のもの」・・・そういう「ニーズ」は、仕方が無いけれども「ある!」ということです。

私らから見れば「宗教は商品では無い」とか「嘆かわしい」とか、漠然と「そういうものではない」とか思ったところで、家に伝わっていてこその「宗教」が無い家の人、その子供たちに、宗教をお仕着せしたところで、それは、反発を買うだけの話。

「宗」・・・という字は「家で祀るもの」という意味です。
それは、代々続くものであり、そうでなければなりません。

ネットの書き込みなど見ても、反発する人の多くが、宗教というものを知らず、知らないということすら分からないままに、ただ反発している、という人たちが多いと感じます。

そう考えてゆくと「宗教」というものは、元々の日本人の在り方「土着」ということの上に成り立っているもので、そういう人たち(=昔からの檀家さん)によって、今後も支えられ、成り立ってゆくのではないでしょうか?

そういう農家などの人たちが減れば、支える底辺は着実に減ってゆきます。
それは、致し方ないものだと思うのです。

宗教を持たなくなった(新しい?)日本人が、そのことに気づいて「宗教に向かう人」が生まれた時に、それに応えられるように、仏教は謙虚に精進してゆくしかないんだと思います。

それは「未来の住職塾」とかがやっているような「経営」をどうするか?・・・というような「未来」と言いながら「現実しか見ていない」というようなものではなく、また、お寺に人を集めるためにあれこれ宗教とはかけ離れたイベントをやることでは無いと思うのです。

旧来の檀家さんを大切にするような形ではあっても良いと思うし、それが切っ掛けで仏法に触れる、ということもあるかと思いますが、それだけに浮かれていてはイケマセン。
おっちょこちょいではイケマセン。

まず「我々がきちんと宗教をする」ということこそが大切なんだと思うのです。

それ以外に、葬儀がビジネスになってしまうのも、宗教が無い家にとっては、便利この上ないものだし、この流れは「そういうものではない」と仏教会が言ったところで、我々が力説したところで、そう易々とは変わりません。

むしろ、最初に書いたことですが「仏教で葬儀や供養をしたい」と思った、という気持ちの方を、そういう気持ちがある、ということの方を評価したいと思います。

派遣のボーサンに関しては「お坊さんドットコム」のような、経営者の志が良くないところもありますが、やるべきことをきちんとやっているならば、それは致し方ない、と思います。

むしろ、過疎で維持するのに苦しんでいるようなお寺にとっては、良いことかもしれませんし、寺の次男や三男などで、僧籍を取ったものの、働く場所がない、というようなボーサンの受け皿になれば、それは、遠回しに「仏法を守っている」ということにもなるのではないでしょうか、ね?







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この記事へのコメント

2015年12月31日 15:48
こんにちは。
いよいよ大晦日で除夜の鐘をもう直ぐ聴けますね。108の煩悩を少しでも減らしたいと思っています。

ブログはいつも拝読させて頂いております。
良いお正月をお迎え下さい。
三日ボーズ
2015年12月31日 20:38

m(_ _)m

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