智山教化センターという出来の悪い組織・・・

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我が宗には「智山教化センター」という組織があります。
強いて言えば、現代における宗派の布教に関する方針やら、寺の運営の仕方、といったようなことを考える機関と言ってよいでしょうか?

良くワカラン存在であります。

そもそも、この「教化」ということばが良くワカラン。

これを(きょうか)と読むことは本来はありません。
仏教語としての「教化」は(きょうけ)であります。

『広辞苑』では「教え導いて善に進ませること」となっています。
これは、これで宗教的なものです。

『goo国語辞典』でも「人を教え導き、また、道徳的、思想的な影響を与えて望ましい方向に進ませること。「人民を―する」「―活動」」・・・です。

『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説』では・・・「言葉としては中国の古典に由来し,日本ではすでに『日本書紀』のなかに出てくる。元来は人を導いて善に転化させることを意味し,仏教でも「きょうげ」として用いられる。江戸時代中期以後は社会教化の意味が濃くなり,社会教育とほぼ同義に使われるようになった。」・・・です。

元々は仏教語の「教化(きょうけ)」から、その字面をなぞって使われるようになったことばではないか?と考えます。

『広辞苑』における(きょうけ)は・・・教導して衆生を仏道に向かわせること。紫式部日記「ーーおこなふ所、山・寺の作法うつして大懺悔す」・・・とあります。

智山派の管長であり、本山の住職である方を「能化(のうけ)」と言います。
紹介する時には「真言宗智山派管長、総本山化主(けしゅ)」と言います。

Wiki先生は「能く化すということ。「化」とは教える、指導するという意味。能く衆生を教化する存在。」と仰っておりますが・・・

能化様に対して、我々を「所化(しょけ)」と言います。「教化される所の者」ということでしょうか。

この言葉の関係から見ても「教化されるのは私たち(僧侶)」である、という認識で間違っていないと思うわけです。

本尊・大日如来の加持身たる能化様が我々を教化(きょうけ)され、我々は、そのまた加持身となって、衆生に布教する・・・そういうものと、認識しております。

つまり、我々の立場からいうと、教化(きょうけ)されるのは我々であって、衆生では無い、ということではないか?・・・と思うのです。

そこを(きょうか)と読んだ場合、それは、現代語化した「教化(きょうか)」に意味に寄った、新しい概念としての「教化(きょうか)」なのであろうか?・・・と、解釈できます。

実は、教化センターには、こういう言葉への思い、というか、葛藤も感じられない感じがする感じなのであります~。

教化(きょうか)」に「センター」だもんなぁ~、馬ッ鹿じゃなかろか?!(^o^)」と思っておったですが・・・曹洞宗でも使っておりました「教化センタ-」(^_^;)
流行りか・・・?

・・・・・・・・・・・・

本日、地元教区の総会に、この「教化センター」の人間が来て「教化目標」などについて話して言ったのですが・・・
何点か面白いことがあったので、記しておきまする。

まず「本宗の教化理念」・・・です。

ここで、教化センター氏は、本宗の「宗法」というものから抜き出した文をレジュメに載せております。
「宗法」という言い方も、やっぱり近代的なニュアンスで、我々としては、こういうふうに「法」という言葉を使うべきでは無い、と考えます。
この「法」も、現代的かつ安直な「法」の使い方で、気に入らんなぁ~。

それはそれとして・・・実は、まともに読んだことが無いものでしたので、改めて読んでみて、新たな発見もありました。

第三条(宗体)本宗は、加持門の教義を宣揚し、事教二相を兼修し、即身成仏の直路を開示した三密の法門である両部の曼荼羅をもって宗体とする。

第四条(本尊及び祖師)本宗は、大日如来を総徳の本尊、両部曼荼羅界会の諸尊を別徳の本尊とする。弘法大師を宗祖、興教大師を中興の祖として尊崇し、玄宥僧正を智積院の中興開山とする。


教化からは離れますが、これに関して、教化センター氏のレジュメに興味深い引用がありました。

第60代化主・那須政隆猊下のお言葉(『宗報』昭和42年8月号より)
本宗義の刻目たる即身成仏の原理を諦信し本尊大日如来に絶対帰依して「南無遍照金剛」なる帰依の真言を称え奉るを以て本宗教団の安心とする。

以前、何度か記事にした「南無遍照金剛」と「南無大師遍照金剛」との違いに関する大事なことを書かれています。

「我々が帰依すべきは大日如来である!」と仰っているわけです。

やはり、真言宗としての本尊帰依たる「本尊(大日)信仰」と「(弘法)大師信仰」は、心のどこかで、きっちり位置づけておかねばならんと思います。

そうすると「弘法大師=大日如来」だろ・・・という言い方をされる人も出てくるわけですが、そこいらへんで、我々も思考の混乱を来してしまっているのだと思います。

とかく、高野山を中心にして、弘法大師そのものを強く信仰する信仰形態に変容してしまったのだと思っています。

それは、お釈迦様が説かれた法と、お釈迦様との関係にも似ていて、そう考えると仕方の無い感じもしますが・・・

つまり、お釈迦様が説かれた法を心のよりどころにしなさい、という「自灯明・法灯明」の教えがあり「自分をあがめるな」という旨の教えを守れず、お釈迦様の教えがワカランようになってしまったが故に、お釈迦様そのもののを信仰の対象をしてしまった・・・それに似た話だと思います。

今や、真言宗といえば、弘法大師そのものを信仰する教団、という感じになってしまったかのようです。
我々が信仰の対象とすべきは、まずは大日如来を本尊とする真言教学であり、次いで祖師・中興の祖であるべきだと考えるのでります。

我々も「南無大師遍照金剛」と、お唱えしています。
前出の那須猊下の頃は「南無遍照金剛」だったはずです。
そのちょっと前の祖父の録音には「南無遍照金剛」とお唱えしているのが残っています。
でも、それもその後に「南無興教大師」とお唱えしてしまっては何にもなりません。

南無遍照金剛・・・大日如来
南無本尊界会・・・寺の本尊
南無弘法大師・・・空海
南無興教大師・・・覚鑁

・・・・が良いのではないか?・・・とワタシは考えています。



・・・続く・・・・<(_ _)>











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この記事へのコメント

フラン
2016年05月11日 20:49
たしかに、密教のご本尊は大日如来のはずなのに、大日如来に南無するご宝号が無いのは謎ですよね~。光明真言がその役割をしているのかなあ。と思ったりもしますが…。
三日ボーズ
2016年05月11日 23:58
ま「本尊界会」でいいんですけどね。
絶対的な帰依、っていうほど、強く言っておらず、散漫な感じが否めません。
「南無」が弱い!
そのくせ、本山では「南無家内安全」だかんね~。分かって無いんだと思います。
そのへんが、一神教的「浄土宗・真宗・日蓮宗」に対して、弱いトコだと思いまする~。

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