国立劇場50周年記念「声明公演」・・・高野山の巻

国立劇場開場50周年記念
平成28年度(第71回)文化庁芸術祭主催
第53回声明公演


・・・という、肩書きが付けられた公演ですた、が・・・・

例えば芸術祭は・・・「国民の皆様に優れた芸術作品の鑑賞機会を提供するとともに、芸術の創造とその発展を図ることを目的に開催してまいりました。」・・・という。

おいおい、「芸術かよ!?」・・・と思ふ・・・(-_-)

この辺の根本的なズレは、どうしたもんか?!・・・と思う。

この辺の根本的な問題は、コレまでにも何度も書いているので、そちらをご覧下さい。

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そういう訳で、50周年でありますが、そもそも、このようなかたちでできた国立劇場って、ホントに必要だったの?・・・という感じがします。

歌舞伎はどこでもできるだろうけれど、能は能楽堂だろうし、文楽などは、大劇場には相応しくない。
やはり、相応しい場所はあり、それは、常に演じられたり、奉納されたり、勤められている場所でこそ、本来のもの。
小沢昭一さんも、「放浪芸」と称した芸能を求めて、日本中はおろか、海外まで出かけていったのだ。

ソコ」が、重要1・・・なのである。

声明は、開場時のプロデューサー・木戸敏郎氏が言う・・・声明の音楽性だけを抽出することと、出向かなくても「鑑賞」できる・・・という考えが、どうしようも無くズレていて、そのまま、現在に至る・・・という感じ。
前に載せた木戸氏の弁・・・
寺院の法会における聲明の演奏は、たとえ建物は何回も建て替わっていても、同じ場所に何百年も存在し続けているモノの迫力に幻惑されて、そこで演奏されている聲明も永遠のもののような錯覚をおぼえさせる。
・・・これはひどい!まったく逆!! この恐るべき勘違い・思い違い・認識のズレ!・・・が国立劇場のベースにある、ということだ。

国立劇場には、伝統芸術の保存、という意味もあって、公演は記録され、時に再生される。
しかし、これも、現地でそのままを記録すればいいし、それこそが望ましい。
50周年を期に、国立劇場の創設、その存在そのものに疑問を呈しておきたい。

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今回の高野山の公演は、まず第一に、ボーサン方の声が出てなかった。全くダメ。

初めの四智梵語の「頭」だけは出ていたけれど、それに続く「助衆」が、聴いているコッチが前のめりにコケそうなくらい、出てなかった。
これは、庭儀(ていぎ・屋外でやる法会)のイメージではないのか?なのに、その声はなんじゃ?!・・・と言いたい感じ。

公演慣れしている「サンガ(旧・高野山声明の会)」のメンツではなかったのか?
・・・ま「公演慣れしてる」ってのも、それはそれで問題だけれど・・・
ステージ、という点では、我々は「素人」でもある、ということ。

それに、今回のワタシの席は、2列目ながら、右端、という劣悪なモノだったので、舞台をほぼ横から見ている感じだった。

そこで、ずっとステージのことを考えていた。

国立劇場のステージは、ステージの奥が音を反射する構造にはなっていない。
天井に「(音が)反射するのか?」という感じの板が下がっているものの、それが反射のための物かは不明。
そういう効果は無さそうな感じ。
ステージが5面をふさいだ反射効果を狙っているものではない。
こういうステージでは、PAが原則。
しかし、今回のステージに限らず、PAはしないよう。
今回も、ステージの端近くにバウンダリーマイクがあったが、これは、記録映像用のようで、PAはしていない。
この姿勢にも疑問を感じる。
元が、生音声の伝統芸能だからと言ってPAしちゃいかん、という考えはおかしい。

今回、そんなことを考えていたら、やはりこの公演を見ていた知人から・・・・
「声明の公演をやるには大きすぎるんじゃないか?」という意見をいただきました。

なるほど・・・です。

その知人も、文楽劇場などでは、そんな違和感は感じなかったとか。
国立劇場でも、小劇場の方が良いのかと思う。
PA無しなら小劇場。そこで、数多くやればいい。

例えば、導師が読む「表白文」もPAしなかった。
声が、まったく前に出てこない。

観客がかなり静かにして集中しないと聞こえない。ただでさえ、一般ピープルには分からないことを言ってるのであるけれど・・・ワカランから、パンフレットを見たり、ガザゴソ音が出たりして、良くない。

あの巨大なホールの中で、一人の声は厳しいだろう。
それも、音響を考えられていると思えない構造のホールで、である。

それは、老僧の肉声でも響く場所でやってるから良いのであって、あのような特大のステージで生音声、というのは、全く以ておかしい。
そこは、お堂で響くくらいにPAするべきだと思う。
それを不自然で無い程度にするのが、PAの技術。
できれば、現地で聴いているほどの臨場感を演出して欲しいものだ。それがプロってものだ。
それが、公演、というものだ。
それくらい何とかしてほしい。そういう意識はもってもらいたい。

この公演の形態は、全く以ておかしいものだ、ということに、きっちり気がついた、というのが、今回の収穫だった・・・?

お堂の中では、音が響き、倍音も感じる。
どこでも、そのお堂の響き、というものがある。
・・・それが、良い、のだ!

我が本山では救急車とカラスの鳴き声が響くけれど、例えば、京都・大原・三千院だと、庭の水の音や、夏なら蝉の声がする。
横川だと、鳥の声と、木の枝の風に揺れる音がする。
そういうものを含めての声明・・・なのだと思う、よ。
歴史と伝統がある場所で、伝統の響き、というものもあるのだよ。

当初、そういったものを排除することを目的にして声明公演をした木戸敏郎プリデューサーの方針が間違っていたし、そもそも、声明公演、という存在があり得ないものだった、といわせていただく。

・・・そういいながら、何度も何度も足を運んでいるわけではなりますが・・・
研究目的としても、やはり「現場」がすべてではあるけれど、行なわれている以上、無視するわけにもゆかない・・・そう思っている・・・わけです。

やはり、公演は別物。
法会にもなっていないし、ホンモノの声明、でもない・・・なに? あれ・・・・というようなもの、です。
あんなもの記録してどうする、とさえ思う、今日この頃・・・であります。

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さて・・・ナカナカ本題の「高野山の声明」に入らんですが・・・

今回の公演の内容は「四箇法要と問答」というもの。

先に書いたように、庭儀なので、ホラ貝がはいるも、結構地味なホラ貝だった。
それに庭の四智梵語。・・・そこから四箇法要があって、問答に入る。

法会の女人さんに聞けば、論議の前に四箇法要があるという。
なれば、これは、論議の法要と言っていいのか?

猿引き問答・・・という。
6月の山王院竪精(さんのういんりっせい)の後に、行なわれ、前屈みに座るようにして、何故か手をつかんだまま問答をする、その姿が、猿が問答しているよいうに見えるから、この名があるとか?

節というほどのものはなく、ただ、語尾を上げるだけのもの。

一度、奈良に始まる論議の法要を見て回りたいと思う。
そこに、法会次第の組み立てや、やり方、声明などに、共通するものがみつかれば有り難い。

というより、大本から、どう変わったか?・・・ということかも知れない。
それを見てみたい。

奈良、行きて~なぁ~。

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あ、そうそう、高野山の声明ですが・・・私、高野山の常楽会には、5回とか通ってるし、種智院大学にも何度も行ってるし、過去にも多くの公演を見てきたので・・・真新しいものは感じなかったッス。

やっぱり、変化しすぎて、別物。

元々は、豊かな節回しがあったのに、みんな同じ節にしちゃった・・・という、感じがするものです。

真言声明というと高野山、と、皆さんも、国立劇場も思ってるみたいですが、かなりつまんなくなっちゃったものだ、とだけ、言っておきませう~。

贔屓目で見なくとも、声明の音楽性は我が智山派の方が上。
高野山は「古義」というから、古いと思ったら大間違いなのだよ~ン。



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