国立劇場・声明公演~~声明と雅楽 荘厳の調べ~(バージョンB)

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毎度のことながら、「声明を鑑賞する」という、劇場側と、見る側の、その気持ちへの違和感・・・

本来、まったくあり得ない、ことだ。
私ら、声明を唱える側としてもあり得ない。

声明を、あくまでも「音楽」と捉えているのが、国立劇場。
これは、設立当初のプロデューサーが明言しているけれど、「国立」という以上、「宗教」としては考えない・・・と。
あくまで、声明というものの音楽性のみを抽出したもの、それが、国立劇場の「声明公演」。

声明は、お経である。お経の「一部」である。法会の一部と言っても良い。
法会の一部がお経、その一部が声明、と言える。

お経は、祈りの言葉である。
その法会という空間に相まみえる皆さんと、気持ちを同じくする我々との「祈り」があって、はじめて成り立つモノ。

祈りは、宗教・・・である。

つまり、祈りを抜いて、声明は成り立たない。
これに触れないのは、初代のプロデューサーからの悪しき伝統。
その根本的な思い違いというか、誤解と言うか、認識の相違が、未だに続いている。

「これで、公演は成り立っている」と、伝統的に勘違いを続けていて、間違いに気づいていないのが国立劇場。

祈りである以上、本尊が、あるいは、そうでなくても、何らかの仏様が無い、という法要・法会はあり得ない。
仏様の言葉を申し述べるのがお経なのだから。

プロデューサーの思いは、劇場開設当時と変わってなくて、自分たちが偉いと思ってるし、自分は何でも分かってると思っているキライがある。
ボーサンを「コマ」だと思っている感じがする。
それが、公演ににじみ出ているから、好きになれない。

つまり、声明を宗教として捉えていない「公演」を企画しているという時点で、アウト!だと思っている。

もう、独立行政法人となって、厳密に国立ではないのだから、宗教的なところに踏み込んでもいいと思うよ。

かつての公演だと、薬師寺の公演は、おろらく、薬師寺側の意向が強く働いたのだろう、写真とは言え、大きなご本尊始め三尊がならび、ボーサンは、仏様に向かって読経していた。

通常のステージではあり得ないことだ。
客席に演者が尻を向ける、ということは。

客席に向けて、声は発せられなければならない、というのがステージ。
故に、客席に向かってハの字に並んだボーサン、というステージが良くあるものだ。

・・・絶対にあり得ない!
お経は、仏様に向かって発せられなければならない。

おろらく薬師寺のボーサンも、ソコを強く主張したんだと思う。
薬師寺では、仏像の東京国立博物館への展示も、声明公演も「出開帳」だと思ってやっておられるんだと思う。
確か「公演」の前に、ボーサンが「お話」をして、写経の勧進をお願いしていた。
アレは「法会」だった。
偉いぞ、薬師寺~!・・・である。


それでも毎度出かけるのは、研究所として、一応見ておかねばならない、という思いからだ。
一応見ておく。・・・その程度のものだ。「中身」は見事なほどに・・・無い!
法会は、現地に行って聴聞する以外に無い。

今回の「公演」は、法勝寺の落慶法要、というものを取り上げた、という点は評価できる。
これは、専門に研究している人でないとわからないものである。
私も知らなかった。

しかし、問題は、その構成であった。
恐らく一日をかけたような長大な法会の、おそらく、1%ほどを抽出したような物になっていた。

結局、国立劇場の側に、ボーサン側が巻かれてしまっているし、劇場側にも、法会・宗教として捉えるという、謙虚さが無い!・・・ということが、問題なんだと思う。

そして、見に来る人も、宗教だと思っていない。
これが、1番の問題!

これは、国立劇場開闢以来の悪しき伝統「教育」のタマモノであろう。
こまったことだ。
公演が終わると「拍手」という、あり得ないことが起こって、いたたまれない気持ちになる。
ここで、鑑賞者の方が上になってる感じがする。宗教への敬虔な気持ち、信心が感じられないからだ。

「大変よくできました~」・・・ではないのだよ。

我々も、当然ながら、常に、良いお経、良い声明を唱えられるように、という気持ちではいるし、そう思いつつ精進している。
でも、それは、「良かった~」と評価されたいからではない。

当然ながら、そういう評価もあるが、そういうことに慢心してはイカンと心に刻みつつ、自行として精進するのである。
より良いお経を唱えるという努力を怠ってはいかない、という思いがあるからだ。

祈りの言葉である声明も、聴いて良い(一般的には「上手~」というような)ものであるに越したことはなく、その方が気持ちもこもる。

そういう思いで、我々は精進する。
ご詠歌も同様。

ステージに立つボーサンの気持ちって、どうだろう?
「日頃鍛えた喉を披露し、どうだ、上手いだろう」・・・という気持ちになってしまうのではないか?

ワタシも、断れず「一度だけ」という思いで、ステージに立ったことがある。
これは、開き直って、音楽と思って聞いてくれ、という気持ちでもあった。
同時に、洋楽中心の会だったので、声明を聴いて何か感じて欲しい、という思いもあった。
しかし、やっぱり、居たたまれない気持ちだった。
祈りの無いお客さんと、音楽性だけを抽出された、表面だけの声明。
何の意味も無い。

こんなのは、一度でいい・・・と思った。


今回の公演内容だけれど・・・

唄(ばい)という声明曲がある。
これは、我が方では、1番長老の役。一人で唄を引く。(唱えるとは言わず、唄だけは「引く」という)
場を静かにするという役目もある。
逆にこそこそ話し出す客がいるのが困る。
ガサゴソ・・・カバンのチャックを明けたり閉めたり、カバンをいじったり、という音が気になる。
「鑑賞」に来てるなら、音を立てない努力をせんか!・・・と思う。

それにしても、落慶法要の復元だと言っても、絶望的なくらい、部分的だ。
それは、肝心の声明曲然り、で、その省略の仕方も実に心ない感じがする。

唄を、始め豊山派の方が一人で引き、やがて、散華(さんげ)という声明曲が重ねられる。
これは、真言はやらんと思う。高野山でも一人だったと思う。
重ねるのは天台。
唄が「秘曲」なので、聞こえないようにするという意味があると聴いた様な気がする。

ここは天台のやり方で・・・ということだろう。しかし・・・よく、聴いていると、メロディが3つある。

どうやら、重ねついでに、天台の唄をも重ねちゃってるみたい~。(^^)/
なにやってんだか・・・

これは、レアなお唱え~。「あらぁ~、ここでしか聴けないわ~♡んもぉ~、嬉しいっ!」・・・ってか?

唄師は、今日は一人だが、平安時代には4人であった、とプログラムには記載されている。

こんなあり得ないことをやる意味があるのか?
・・・いや、無い!

唄の内容の省略も酷いものだ。
「感じが分かれば良い」長くやっても、同じだから・・・という「判断」なんだろ。
4行あるうちの一行である。阿闍梨じゃ無いんだから~。・・・って、分かる人だけ分かれば良い(^_-)

散華も酷い。
公演とは言え、天台のボーサンが、真言の散華を唱えてる。あり得ない!

讃(四智梵語)・・・始め天台が唱え、すぐに真言が音を重ねる。
これもあり得ない。

法勝寺の次第には、通常の四箇法要に加えて、密教系の「讃」が加えられ、この形の最初らしい。
その讃は、真言(東寺)と、天台の二様で唱えた、ということらしい。
「二様」というのだから、重ねてはいないだろう。

こういう、勝手な創作はやめて欲しい。
再現というなら、勝手な解釈はやめて、ある程度、「再現」の意味あるものにして欲しい。

ココでならできる再現ということに価値を見いだすということも、公演としての単なる企画探しともいえる。

そう、公演の「企画」でしかない。
公演という、時間の範囲内で、しかも、音楽的な部分だけを見た再現。
結局、つまらない演出でしか無い。ナニも残らない。

「またつまらないものを見てしまった」(^^)・・・という、気持ち。

「誦経」が光明真言だけ、というものいかがなものか?
宗教としては、ここでナニを唱えたかが興味あるところだけれど(コレがメインだから、だ)、光明真言だけ・・・すか?!
それも真言の読み方、というのは、天台の皆様に失礼。m(_ _)m

いわゆる今回唱えられた声明の部分は、法要の飾りの部分。メインは、読経(誦経)。
あ~~~~あ、であります。

後半、隣のオバサマが、プログラムを「ちょっと見ては閉じる」を繰り返している。
その閉じるときの音が気になる。

「演出の都合上、非常口の案内灯を消しています」と言っているが、客席には、常時ライトが当たっていた。
プログラムが読めるほどに。
どういうことよ~???

この訳がワカンナイことはなんだよ?! ナニやってんだよ~。
非常口の案内灯を消すなら客席の灯りも消しなさいよ。

なまじ、読めるくらいの明るさだからプログラムを読もうとするのだよ。プログラムをめくる音が耳障り。

どうせ、読んだってワカランよ。
「黙って聴いてなさいよ」・・・でいい。なぜ、消さない?!
ステージ脇に、電光掲示板で説明が出てるんだから、それで良いじゃん。
あれ、後半に多くなるのは、「ワカラナイ」からだと思う。

ワカランから、プログラムを読もうとする。
それが、ガサガサとうるさいのだ。

間の25分の休憩も、必要か?
気持ちが削がれるじゃないか?!

あと、拡声をしないのは何故か?

国立劇場の設計の悪さは、音が響くようになっていないということだ。
ステージの汎用性を優先したから、反響がないがしろになっている。

NHKホールのような音響にはなっていない。
ステージ奥の音が前に出てこないのだ。
真ん中でのボーサンのソロも、広がりすぎてダメ。

そこで、ボーサンひとりの肉声だけ、というのは、全く理解できない。
そこにはマイクを付けて、違和感無くPAするのが、当たり前だと思う。

伝統芸能だから・・・つまり、肉声が原則だから・・・というのは理由にならない。
肉声で良いのは、そういう空間(キャパ)でやっているからだ。
「公演」なのだから、きっちり聞こえるようにするべきだろう。
ナニをヘンに気取っているのか?!・・・と言いたい。

まったくおかしな公演である。



・・・以上「バージョンB」でした。m(_ _)m

「B」は、「Black」の「B」。

最近、毒吐いてない。言うことが、奥歯に何かつまってる・・・という向きがありましたので。
2バージョンでお届けいたしました~。(^_-)




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