出流山が宗派の修行道場になる

来る平成35年の「弘法大師誕生1250年」記念事業として、私がかねてより提唱していた、栃木市の「出流山満願寺の修行道場化」の提案が可決された、と、実行委委員会の一人(法類)から連絡があった。
喜ばしいことである。

出流山満願寺は、私が大学1年の終わりに加行(けぎょう)をした場所だったが、近年、衰退が激しく、随分前に僧房は物置と化し、信徒快感・・・いや、信徒会館も閉鎖されていて、加行道場になっているにも拘わらず、現状で加行が出来なくなっていた。
できるにはできるが、食事がケータリングになってしまうらしい。
毎日これは辛い。
この食事を食べ続けることがイチバンの修行になってしまうでしょう。
私が加行をした時には、食事は食べ放題だったのを思い出す。

出流山満願寺へは、栃木の山奥、葛生のセメント工場の中をホコリを被りながら行く。
山門の外には有名なそば屋があるが、ワタシが行った時には、ホントにそば屋しか無かった。
その気になれば、出てゆくこともできたが、歩いてゆく範囲には何も無かった。
その状況は、今も、変わっていない。

その状況こそが「修行」に相応しいと思うのだ。

現在、加行は成田山を初め、あちこちに道場に指定されている寺はあるにはあるが、息子たちは殆どが本山でやった。

本山も、東山の縁、市街地にある。
出ようと思えば出られるが、みな、案外キチンとしていたようだ。
ま、学生だからだろう。

大人がふざけている。

大人になってから、行位(位・衣の色)を上げるのに必要なふたつの行、と言う名の単なる通過儀礼をがある。
ひとつは「伝法潅頂」というもので、弘法大師が唐において恵果阿闍梨から伝授された儀式に則って行なわれる厳粛な儀式である。
もうひとつは「伝法大会(でんぼうだいえ)」という論義法要である。
本来なら、伝法大会で自らの知識の確認をして、潅頂で弟子に伝授する、という順序が正しいのだけれど、今は、どっちから受けてもイイコトになっている。
これをキチンとしよう、という提言は、実行委員会で考えることではない、ということで、受け入れられなかった。

その行に入る者は、本山に宿泊するのだが、「門外不出」なのに「門限10時」という妙な規則がある。
その門限も無いと行って良い。
私が伝法大会に行ったときには、門限の10時過ぎなどザラで、初日からいきなり、2時頃帰ってくるバカ者がいた。

まったくふざけている。

そもそも、あんな所で修行をしろ、というのが間違っている。
そのことに本山は、もっと早くに気づくべきだった。
本山は動かせないが、修行の道場を別に作る、という発想がこれまで無かったのが不思議である。

潅頂は本来自分の弟子にするのが相応しい・・・というか、そういうものなので、本来は、地方に道場があるべきである。
伝法大会も、江戸時代は、地方にあった「談林(だんりん)」という、主に、教学の勉強をした寺で行なったものであって、本山だけでやるというのは、明治以降のことだ。

その道場の整備の必要だと思っていて、これも同時に提言したものの、やはり、このふたつの行事が本山の重要な収入源だ、ということなのだろう、これはダメらしい。
もっとも、受け入れる寺の整備と言うことも考えるとなかなか難しいものがあるのだろうと思う。

そもそも、本山の職員がふざけている。

あの立地がそういうふざけた職員を育んでしまっているのだ。
祇園が歩いても行けるような所にあり、呑む場所、食べる場所が密集&散乱している京都である。
風俗は限られるが無いことは無く、ちょっと足を伸ばせば、雄琴だって、大阪だってある。

そんな所に「修行道場」があるのがイケナイ。

今回の本山の英断は大変喜ばしいことだ。
ただし、あくまで事務的な中心であることは譲れないらしく、行に関わる人間だけの移動となってしまったことは残念だったが・・・(講伝所が貧乏くじ、ということか・・・)

出流山という辺鄙な所において、行者も阿闍梨も外に出られない、出ても何んにも無い。
・・・という環境でこそ、本来の行ができるってもんだ。

元々、我々には「醍醐住山制」というのがあって、醍醐寺に行って3年間の修行が義務づけられていた。
先日の講習会で、豊山派も同様で、智山だけでは無かったようだが、そういう行が勤められていたのだ。

江戸の初期には、20年の修行が徳川より沙汰されていた。
ボースに寺請制度という特権を与えるだけでなく、キチンと厳しい行を命じていた家康は、スゴイと思う。
その志半ばで亡くなった若い僧の墓が本山の裏山にある。
その行も、時と共に段々短くなってしまったが・・・

それを本来の形に戻すことが、これからの我々がすべきことだと思うのだ。

ますます厳しくなる世間の風当たりに対して、我々が成すべきコトは、本来のボーズがあるべき姿、というものに近づく努力をする、ということに限る。

「葬式仏教」がイケナイのではない。
これは必要だ、というのが、日本の文化の結論である。

しかし、それを勤める者の存在意義が問われているのだ。

この部分に正面から挑むことが必要なのであって、今回の出流山満願寺の修行道場化、というプロジェクトを活かすことこそが、我々の責務であろうとおもう。










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この記事へのコメント

三日ボーズ
2018年04月01日 09:00

ぬぁ~~んちって。(^o^)

つる
2018年04月02日 08:10
ええっ!
エープリルフール?
三日ボーズ
2018年04月02日 08:19

へへっ・・・・(^_-)

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