真言行者たる・・・

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よく我々は自分たちを指して「真言行者」という・・・。
これは如何なるものなのか?!

・・・何が「真言行者」なのか?!

日曜日に「八千枚護摩供」を見て、翌月曜日、一日、腑抜けのようになっていた。
素晴らしい行を目の当たりにして、感動したものの・・・

寺に戻れば、色んな寺の用事がイッパイ・・・

寺報も作らねば・・・
問い合わせもある。
寺の看板設置、来客、色々・・・

机の上もゴチャゴチャするばかりで、整理できないが故に、捜し物ばかり。
身の回りのアレコレ、片付けなきゃならないものに、追われまくっている。

雑事と言えば、雑事ばかり・・・

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捕らわれたくない、雑事。仕方ないけど、メンドクサイ。

住職としての壇用は・・・いや、それこそ大切なものだけど、分かっているんだけど・・・

自分の思いは、こんなんぢゃない!・・・という苛立ちが空回りして、思考停止のようになった。

またまた、捜し物をしながら・・・「何やってんだ、オレは?!」・・・という思いが頭をもたげてきて「ちょっとヤバイ」という状態になった。
なにもできなくなった。
この精神状態は・・・危ない。前にもあった。

八千枚護摩供で元気をいただいたハズが、空回りして、逆に落ち込んだ。
こまったモンだ。

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八千枚に手伝いとして出仕していた副住職も「オレも護摩やろうかな」と言い出した。
大いに影響を受けてきたようだった。

大晦日から元旦に至る元朝護摩をやる、というので、去年と今年とやって貰った。
それなら、定期的に、例えば、毎月観音様の18日にやれば?・・・と言っといた。

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「真言行者とは何か?」という自分への問いかけが続く・・・

宇都宮では、他に、先月も記事にした、多氣山の火渡りもある。
これも若い住職が、住職になった時から始めたものだ。
これも、スゴい修行。

「うらやましい」と思う。
・・・そう、うらやましい。

ワタシはと言えば、ただ「ボ~~~~~ッ」と、ここまで来てしまった・・・感がある。

ボーズになるのが嫌で、それでもナントカ過ごした学生生活から、社会人となって、好きな印刷の仕事をした。できうるならば、寺の仕事に関わるのは延ばしたかった。
そんなバカヤロだった。
ボーズとして、今ごろ、後悔している。

今思うと・・・

二十歳の時に「加行(けぎょう)」という行で、冬の二ヶ月、栃木の出流山に籠もった。
あの時の「行をした」という実感、その時の、自分の心身の状態を懐かしく思い出す。
真冬の滝行が白眉。そして、護摩行。密教の修法・・・そういったものの行。
山の中、という環境も良かった。
あれで自信がついたんだと思う。
素晴らしい体験だった。

そう、「体験」・・・だ。
密教とは、体験だ。

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日本の仏教は、山岳仏教から始まったと言っていい。
一方、都の仏教は学問だった。

それよりも、自然の中で修行をして霊験を得る、ということが仏教の本題になってゆく。
弘法大師・空海さんも、若き日に山を駈けて修行をしたんだと思う。
最澄さんもそうだったに違いない。

「八千枚護摩供」などは、どちらかといえば「修験」の行と言えるだろう。
肉体をいじめる行によって、己の煩悩を消し去り、霊験を得る。
南都の悔過もそう。

・・・そうか、奈良では今の大学的な学問所という面と、悔過という行が合わさった形だったか。

しかし、悔過の法要は形式的になって行くのに対して、修験的な行は、より肉体を酷使する方向に向かう。

弘法大師・空海さんが「行」で得たものは何だったのか?

密教的には「三密行」という行がある。これは修法の中に取り込まれていて、ごくごく簡単に「即身成仏」の観念を行なう。
身・口・意の三密。
修行者が手に仏の印を結び(身密)、口に仏の真言を唱え(口密)、心も仏の心境・三昧に住する(心密)。
これを修法の中で簡単にやってしまう・・・という印象がある。
形式的と言えばそう。
これを突き詰めることを、さて、しているのかお前は?!・・・と自問自答。

密教は、ともすれば「簡単」になっていると思える面もある。
三密加持すれば、簡単に即身成仏(死後の成仏ではない)できるという感じになっている。
・・・ようにも見える。

三密行、それそのものが行なのであって、その三昧を得るには繰り返しの、行こそが大事なんだと思う。
近年、強くそう思うようになってきた。
行をしなければいけない!・・・のだ。

同時に、滅罪は真言ではないな・・・とも感じる。本来は違う、と自信を持って言える。

でも、私ら田舎の滅罪寺は、滅罪がメイン。
だからこそ、やはり、「行」が必要なんだと思える。

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グダグダと、考える。

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