「アンチ佛式葬」について考える(その4)

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正直、
いまや
ここまで世論が
アンチ仏式葬だと
ゼロから論を
考えなければ
ならなくなりました。


さて、この御仁が、何をどうゼロから論じるというのか・・・?

この世論が「アンチ仏式葬」だという「印象」の根拠は全く無いという想像はつく。

このことについて、コレまで私なりの思いから論じてきたが、戦後の核家族の孫の世代が、葬儀というものの捉え方に関して迷走して行くのは確かなことだろう。

その向かう方向が、いずれの方角に向かうのかは、ワカラナイ。
それが「アンチ仏式葬」という方向に行く、ということも勿論考えられる。

件のツイートの御仁が「アンチ・・・」という印象を書き込んだ、その行為は、ただセンセーショナルなものとして注目させたかった、という次元でもあるだろう。
一歩先を見て言っている、と考えれば、それは想像・予想の類いなので、間違いであるとは言えない。

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我々の方でも「布教」ということが語られる。
「教化」という言葉もある。これは、元々は「能化(のうけ)」様が、我々に対して教えを垂れることを言うのだったと思う。「能く教化(きょうけ)する」から「能化」様という。
教化される我々を「所化(しょけ)」という。
それを一段ズラして、我々が教化する、ということになってる。
「教化」と「布教」はどう違うのか?
・・・おそらく・・・
教えを知らぬ者に説くのが「布教」で、既に教えを納得した人に対してもっと説くのが「教化」なのかな?とも思う。
字面を見ると、逆のような気もしてくるけれど・・・

本山の教化(きょうか)センターは、布教・教化をしろとよく言うが、さて、何のために布教するのか?
そういう意味での「布教」は、江戸時代には必要無かったと言えよう。
強制的に檀家にされ、事によっては、住職の宗派が変わってしまうことさえあったのだから、布教をして壇信徒を増やす、というこtの必要性は無かった・・・はずだ。
それとは別のところで、例えば成田山が、東京で歌舞伎に合わせて出開帳をするようなものは、寺請制度とは別の信仰を集めたいからだ、と言える。
浄土真宗が「節談説法」というものが盛んだったが、あれも、信徒に向けての教化だったと思える。
もともと、真言のボーサンは、あまり説教をしなかったという印象がある。

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本山の教化センターは、布教・教化をしろとよく言う、その目的はなんだろうか?
どうして布教をしなければならないのか?
一度教化センターの人に、聞いていみたいところだ。

壇信徒を獲得するため、という目的がある程度見えてくる。
その壇信徒に、宗派の法を説くのは必要だ。

では、その「壇信徒を増やす」ということの目的は何だろうか?

我々が良いと思っている「法」を広めるため・・・?

これまで何回も書いてきたのは、現代は、仏教はじめ宗教が家に無い、という所で生まれ育ってきた人が増えてきたということ。
戦後増えた世帯は、みんなそうだと言ってよいくらいだ。

その人たちに、法を説くということの重要性は、確かにあるといえる。
しかし、身についてこその宗教が、まったく身についていない人にそれを説くのは困難なことである。

なぜ法を説くのが必要か?
それは、そうあってこそだと、我々が思うからだ。
自分の宗派の教義が良いから信じて欲しい・・・という意味合いになる。
しかしながら、それが「押しつけ」になってはイケナイと思っている。

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例えば、浄土宗とか、特に浄土真宗は、自宗の教えを強く説く。
浄土真宗は、特に、他宗の教義等も含めて、世俗の慣習等を、みな「迷信」として否定する傾向が強い。

実は、仏教の「弱さ」は、ここにある。

「同じ仏教」でありながら・・・「言ってることが違う」。
「じゃあ、どれが本当の仏教なの?!」と思うだろう。
それぞれが、自宗の教義を布教していたら、聞き手は混乱するだけだ。
およそ、世間のボーサンは、多くがコレをやっているんだと思う。

私は、通夜でも、法事でも、宗派の要素はできるだけ語らないようにしている。
一般論として感じることを話している。

「真宗では・・・」「浄土宗では・・・」というような、自宗の考えを押しつけるようなことを言ってはいけないと、私は思っている。
以前、お通夜のときに、宗派の名前をあげて、手を上げて貰ったことが何回かやったことがある。
真言宗は、一割に満たない、という印象だった。
あとは他の宗派・宗教の人なので、その人たちに自宗の教義を語るのは失礼なことだと思うからだ。

しかし、中には、仏教に慣れ親しんでいない人が多い。
だから、そういう人に向けて「布教」することは、まあ、あっても良いことだと、は、思う。

そうは言っても、いざ、葬儀というときにどの寺を選ぶか、という段になって、法話でソコが良いと思ったから、ということになるのは、極々希だと思う。
でも、そこをやらないとイカン、と強く思っている宗派・寺もあるのだろうな~・・・とは、思う。

私は、殊更に自宗の宣伝をしたいとは思っていない。

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以前に記事に書いたが、コレからの仏教にとって邪魔になるのは「宗派の教義」だと思っている。
特に、葬儀に関しては、宗派の教義とかは関係無い・・・というのが、民衆のレベルの話である。
一般ピープルが仏教の葬儀に期待しているのは「魂の安定」に他ならない。
成仏だの往生だの、色々理屈をこねても、そんなことはどうでもいいんだと思う。
亡くなった人の魂のようなものが、何らかの形で安定する、ということが大事なこと。
一般の人が「成仏」というのは、そういうことだ。
元々は「霊鎮め」という概念にあたる。
長年、日本人は、亡くなった人が「悪いモノ」になって我々に悪影響を及ぼさないでほしい、という概念を強く持っていた。これは古事記のイザナギ・イザナミに遡る。
そして、仏教的には、源信さんの『往生要集』以来、「地獄」への怖れも伴ってきた。

今は、そういう気持ちは薄れてきて、魂の安定を願う、という気持ちが主になっている印象がある。
仏教の葬儀の概念は、この「地獄からの回避」ということで統一されている。
宗派によって、色々あるが、要は「地獄というモノがあるかも知れないが、そこには行かせない」というのが、日本における佛式の葬儀の共通した概念である。

ここに、余計な理屈は必要無い。

これをこねくり回しているのが、現在の日本仏教でもあり、逆に、それが「佛式の葬儀」というものの存在意義をボヤかしてしまっているように思えるのだ。

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「上求菩提 下化衆生」という言葉がある。

上を向いて菩提を求め、下を向いて衆生を教化する、というような意味。
自身が修行をし、ソレを以て、人々を導く、というようなことだが、上求菩提を宗派の理屈、下化衆生を葬儀として考えても良いと思う。

我々は宗派の理屈をひたすら勉強するが、それが直接一般ピープルのためになるとは到底思えない。
これは、ただただ、僧侶としての研鑽である。

それを如何に分かりやすく説くか?というところにかかってくるわけだが、私は、この部分さえ不要と思っている。
先に述べたように、一般ピープルは「ソコ」を期待しているわけではない。
ただただ「故人の魂の安定」のみを期待しているのである。

極論をすれば、仏教でもなんでも良いのである。

歴史的に見れば、元々神様は穢れを嫌うから、死には近づけない。
そこに「死を当たり前とする仏教」の存在があって、弔いは坊さんがやる、というようになった。

神社にお参りに行く途中で行き倒れの死体に遭遇し、弔ったが、死穢に触れたのでお参りはいかがなものか?と思ったら・・・神様が現れて、喜んで、お参りをするのは構わないと言ったという逸話がいくつもあるらしい。

人々は、そういう形で仏教というか、坊さんに弔いを頼む、ということが行なわれてきた。
これが、佛式の葬儀の始まりである。

葬式仏教と揶揄するようにいうが、そういう人は、こういう歴史を知らないのだ。

もともと、仏教、というか寺というものは、葬儀を任された所である、ということ。

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近年「寺離れ」というワードがアチコチそここで聞かれる。

これだけだと「檀家だった人が寺から離れている」という風に取られるかもしれないが、そうではない。
この言葉も定義無く、メディアでもいい加減に使われている。
客観的にみてれば、これは、これまで書いて来ているように「寺に縁が無い人が増えた」ということに他ならない。「離れている」というワケでは無い、と思う。
これも、使い方を考えて欲しい言葉である。

こういう言葉の使い方に乗せられてか、お寺でイベントをやって、人を集めなければイケナイ・・・と思うボーサンも出てきた。
「未来の住職塾」とかいういい加減な名前の組織がその代表的なもの。

中には、お寺の本分を離れても、人集めをしなきゃアカンと思ってる御仁もいる。
それは違う。

都市など、人はいるのにお寺に人が来ない、と思ってしまうのは仕方が無いとも思うけれど、寺が寺の本分を忘れてイベントとかをやって人を集めても、意味が無い。
昔は、寺子屋とかがあったり、寺がコミュニケーションの場だったろうと言っても、それは、現在のような様々な施設がなかった時代の話だ。

そもそも寺というのは「ハレ(=非日常)」の場であるから、「ケ(=日常)」の場ではない。
それでいい。

寺に行くのは葬式と供養の時・・・でいいのだ。

我々は、それを粛々と行なっていればいい。
余計な事は、その肝心な存在意義をぼやかすことになってしまうのだと思うよ。






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この記事へのコメント

勉強熱心でえらい!
2019年10月03日 18:20
坊さんにご飯を食べさせてやるために仏教があるのではないか。
恩恵を受けているくせに愚痴っても仕方ない。

最近生臭坊主だと思っていた近所のでかい寺の坊さんが
実はそういう意味で 職業に対して真摯に取り組んでると思うようになった。
最近ベンツから国産車に変わったけど無理するなといいたい。
三日ボーズ
2019年10月03日 18:42
もちっと、ちゃんとしたこと書けんかな〜〜〜?
何がいいたいんや〜〜〜?
もっとよく考えられるようになって、ちゃんと書けるようになってから書き込んでや〜〜〜〜

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