弔いのゆくえ・・・手元供養というヘンなモノ

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エンディング産業展、というイベントに行くのも3回目か?
葬儀の周辺が今どのようになっているのか?・・・というコトは、常にチェックしておきたいと思ってるので、今年も。

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この3年、目立ってるのが、誰が言ったか「手元供養」・・・という造語。

「手元供養、って、そりゃ〜仏壇やろ〜」・・・なワケですが、何とそこに「遺骨」とかが入ってくる、ということになってしまっています。
我々は「弔い」というものの新しい、いや、変な概念に惑わされるのか?・・・ということです。
誰が作ったものでしょう?「手元供養」・・・まったく、勝手に色々こさえないで欲しい。

こういう勝手に作られた言葉・概念が、数多く出てきました。
みんながそれぞれ、勝手に考えての結果です。

そこに、キチンとしたコンセンサスも、元になる共通項も無いままに、勝手に考えてしまっているわけです。

葬儀などを、歴史的に、民俗学的に探るようなことはしないし、却ってそういうものは「古くさいもの」として避けるキライがあります。
自分はこういう「商品」を思いついたよ〜と、競うように「開発」するのをよろこんでいるようですが、それは本来の形からドンドン逸脱することでもあります。
お盆の解釈がドンドン変わっているのと同じ事。

本来の意味など考えないで、勝手に変えてしまうということがアチコチで起こっていて、変わった物をもとにまた変えるから、またまたドンドン元々の意味から離れてしまう・・・そういうことが多くあります。

何度も言ってるように、核家族の、そのまた核家族・・・という所で育った人が、「宗」としての宗教感というものが無い人が、勝手に解釈をしているのが今、なんだと思います。

弔いの方法というものは、おそらく縄文時代の頃から色々考えられてきて、仏教が入ってきてからも、長く仏教は関わらなかったので、民衆の中に育ってきたものでした。
人々が、何百年、いや、千年を越える時間をかけて育んできたものが葬送のしきたりと言えます。
それを、ここ10年くらいで、徹底的に壊す、という状況になってしまいました。

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「手元供養」という造語・・・

ひとつには、単なる「仏壇」の変形、です。当たり前のことです。仏壇が「手元供養」です。
しかし・・・
住宅事情が「昔ながらの仏壇」を拒むような感じになっているのだと思えます。

核家族が自分たちの家を造りますが、その時に。ココは自分が死んだ時に仏間にする、と考える人は希有でしょうし、そう勧める設計屋さんも、まずおらんでしょう。
畳の部屋が無いウチもあります。
困って、リビングに昔ながらの仏壇を置いた人を数多くみてきました。
「合わないよなぁ〜」と思いながら。
どうしても、仏壇が浮いてしまいます。自己主張が強すぎ、になってしまいます。

近年、洋風の家具の上に置いても馴染む形・大きさの仏壇ができてきました。
もはや「仏壇」とは言えないような物もあります。

もうひとつは、ここに「お骨」を置く、ということです。
小さな骨壺があります。
関西方面で行なわれている、のど仏と頭骨の一部だけを取り出して、後は棄ててしまうのが当たり前、というやり方だと、小さな骨壺で置いて置くことができます。
小さな骨壺だと、お墓も要りません。
そういうことで生まれてきたものでしょう。
関東などではこうは行かないでしょう。
山形では、お骨はお墓に穴を掘って埋めるのが普通なので(曹洞宗の影響らしい。当方の仏教会のある曹洞宗の寺でもそうしているとか)、この形はできないのだろうと思える。

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エンディング産業展で目立ってきたのは、もやは、仏壇的「箱」ですらない、という、このような祭壇のような物。
ここにもなんと「お骨」を置くようになっている。

お骨を手元置くというのは、例えば、お墓があっても「ずっと病院にいて家に帰れなかったから、とかいうようなことで、四十九日の間は遺骨を家に置いてあげたい」というような人が、結構多い。
また、お墓ができるまで、家に置きたい、という人もいる。
お墓を考えず、ずっと家に置く、ということは考えられなかったが、それを不自然と思う人が減ってきた、というか、宗教観が育まれなかったことで、そういうことも、通念に関係無く選択できる人が出てきた、ということだろう。
こういう物を作っている人たちが、そもそも、そういう世代なのだろう。

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これが新しいというか「いびつ」な葬送感、とでも言いましょうか?
ホントに良いのか?!・・・と考えさせられるものです。
「間違った概念」の提供になっていないのか?・・・ここは大事なところです。

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こういう「商品」が、どういう状況を鑑みて「開発」されたものなのか?
来年は、ボーズとして行って、話を聞いてみようかとも思っています。

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亡くなった方は「あの世」という別世界に行く。
これは、古くは「お墓」と同義だった。
お墓はあの世だった。
お骨は、やはり「別世界」にあるべきもので「この世」にあるべきものではない、と思うのだが・・・・

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「手元供養」と「納骨仏壇」という物もあった。
丸ごと一体分のお骨が入るようになっている。
こんな物、欲しいか〜?!・・・と、思う。

けれど、お墓の問題から、必要に迫られる、という状況もあるのかも知れない。

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そしてでてきた「ジュエリー」にしちゃうヤツ。
遺骨の一部をカプセルに入れて肌身離さず持ち歩く、というものと、遺骨をダイヤモンドにするという業者もある。
骨はカルシウムじゃんか?!炭素なんかあるの?・・・と、Facebookの広告にコメントで訊ねたら、遺骨を特殊な薬で溶かして、僅かな炭素を取り出してダイヤモンドにします、と言ってきた。
広告では、お骨を全て使ってダイヤにします、と言っているけれど、確かに使ってはいるけれど、炭素以外のカルシウム、即ち、殆どの骨は薬液と一緒に処分するんじゃな〜か?!
法律に問題無く処分します・・・って、そういう問題じゃない。結局「棄ててる」んじゃんか〜。
関西方面なら良いかも知れないが、そうではない地域ではやらないでほしいものだ。

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「お骨を常に持っていたい」という人が、そんなにいるのだろうか?

「そんなことしたら成仏できないよ〜」とか言ってあげればやめるだろうか?・・・根拠は無いけど、そんな気もしてくる。

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この仏様は、底に穴があって、お骨を入れるようになってる。
ホントに、こうしたいという人がいるのだろうか?
いても「それはいけませんよ」と言ってあげるものだとおもうのだけれど・・・

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後の代(子・孫)が、墓を見られない、後の代がいない・・・色々な事情で、お墓を造れない家も多いのだろう。
そういう人たちが、お骨を家に置くとして、さて、その家の夫婦なりが、亡くなったら、お骨は、その人の物も含めてどうするのだろうか?

それをやってる業者があった。

残った一人が亡くなったときには、お骨は会社で引き取って永代供養する、というようなことらしい。
細かいことは聞かなかったが。
・・・その会社が潰れたら、困ってしまうわな。

でも、これは、かなり大きな問題であることは確か。
現実に切迫していることかも知れない。

ウチの寺でも、この件はちょっと考えている。
手元供養ぢゃなくて、二人で暮らしていた夫婦のどちらかが亡くなった場合、お墓を造っても後を見る人がいない場合・・・
お骨は寺に預けていただくようにしているが、残った方が亡くなった場合、親類とかもなければ、永代供養となる。
・・・そういう形を考えたい。

元来、お墓は別世界だった。
異世界だった。

埋葬するというのは、別世界に送る、ということでもある。
それを手元に置いておく、ということは、かなり変節したものだ。

ウチでは、なるべく納骨堂に置いてもらう。
あくまで一時的なこととして、無料にしている。
もともとはお墓を造るまでの仮の安置所という意味合いだったが、ずっと置いている人がいる。

そういう皆さんの納骨をどうするか?
これからの寺が考えることだと思う。





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この記事へのコメント

ふく
2019年09月04日 10:02
おはようございます。昨日、ゆっくり記事を読ませていただきました。父が約3年半前に亡くなり、四十九日の間、お骨が自宅にありました。父の死は到底、私にも母にも受け入れられず、特に母は自分の大手術後、身代わりのように亡くなった父の死は、受け入れられず、自分の体も大手術後、2ヶ月の事だったので自分が生きることに必死でした。四十九日前の日、骨壷をそっと開けて、小さなお骨をそっと取り出し、(爪の先ほどのかけら)私と母で一個ずつ持っています。これは、絶対にダメな事なのでしょうか?もちろん、お寺さんは知りません。確認したのは、葬儀会社の方でした。小さな入れ物が売っていたので、これは?と聞くと、手元供養用の壺で、小さなものならばこれに入れて持っていても良いという話でした。御寺様に話をして、お骨は戻すべきなのでしょうか?教えてください。
三日ボーズ
2019年09月04日 13:15
土葬が主流を成していた土地や、そんな時代には、葬儀を終えると何でもかんでも埋葬しました。
今は、火葬にして、お墓があっても四十九日で納骨、という方が多くなっています。
日本人の古来よりの考えは、亡骸はお墓に埋葬するというものだったのだと思います。現世の体は葬って、魂があの世に行くというもので、これは浄土教的な考えとも相違しません。亡骸そのものへの思いではなかったように思います。

さて、一方で仏教には「舎利信仰」というものがあり、これは、古く仏像が造られる前から、舎利(=お釈迦様のお骨)を生身(しょうじん)の釈迦である、と考えるものです。
仏教の祖として、あるいは仏教そのものとして、現世に現れた人間としてのお釈迦様という存在への篤い思いがそうさせたのでしょう。
舎利=人間としてのお釈迦様、という思い。その強い思慕を以て信仰していたのですが、じゃあ、これと現代の手元供養というお骨への思いと、どう違うのか?といわれれば・・・同じなのか知れません。

亡き人への思いが昂じてお骨を食べるに至るということを聞きます。
しきたりに従って一気に埋葬にいたってしまえば、そういう思いも抱くこと無く、諦められたものだったのでしょうが、四十九日の間家にあるということから、却って思いを強くされるのかな?と思いいます。

これは否定するものではありません。

ご主人様、お父様への強い思いは、そうそう簡単に短時間に消し去ることはできないでしょう。
それは、何が何でも消し去れ、というものではありません。

本来ならば、お墓や仏壇(位牌)が、その気持ちを向ける対象であったわけで、ワタシとしてはそうであって欲しいと思いますが・・・
それを、生きていた証し、というか、その人そのものであるお骨に向けることは、いまや、仕方が無いものになってきたでしょうか?

強い思いが消えることはないにしても、それは次第に、時と共に、弱くなってゆくものと思います。いつまでも強い思いを引き摺ってゆくものではないと思います。
そうしなさい、ということではなくて、自然にそうなってゆくものと思います。

ワタシとしては、遺骨を持つことは、それを妨げるようにも思えます。
いやむしろ「忘れたくないから」というお気持ちであるかと思いますが、それはあなた自信がお決めになることだと思いますから、これ以上はもうしません。

それが良いか悪いかは分かりませんが、お子さんなりに、このお骨はおじいちゃんのお骨だから、ワタシが死んだら一緒にしてね、と言っておくのが良いでしょうかね?
ふく
2019年09月04日 15:54
慈愛に満ちた、お言葉、本当にありがとうございました。母も私も、あの時、父の死が理解できず、受け止められずでした。多くを語れば未だに理解できず、受け止められずというのが、私自身の本当の気持ちです。母を支え、実家を支えて頑張ってきました。父のお骨。それが、母の心の支えになり、私の心の慰めでした。親戚の方から、お骨を持っている事はとてもいけない事で、縁起も悪い。父が成仏できないから、早くお墓に戻せと言われました。何も知らない親戚の人に話をした、妹も浅はかな事をとも思いました。父が亡くなって3年半。やっと少しずつ、前を向いて歩き出そうとしているところで。本当にこの悲しみは深く心に思ってしまいました。時期を見て、お墓を開けるときに、御寺様に話をして、戻せるようならば戻したいと思います。ご無理言いまして、申し訳ありませんでした。ありがとうございました。