お盆と施餓鬼(その2)

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ウチの施餓鬼壇。
本堂の構造的に外陣に施餓鬼壇を作りにくく、また先代の住職のやり方を踏襲してもいるので、仕方なく内陣に置いている。
ウチのように、施餓鬼壇を内陣に作ると、それこそ、施餓鬼とお盆が習合する。・・・しないとできない。

他宗派では、禅宗、特に知ってる臨済宗の寺ではキチンと外に作っているのを見る。
本来の意味からすれば、低く作るところだけれど、儀式としてはやりにくいから、この形になったのだろう。

ウチの施餓鬼では、施餓鬼壇に精霊馬を置いてしまったけれど、精霊馬は「お盆」だから、施餓鬼壇には相応しくないのかも知れない。
同様に、本山の施餓鬼壇にも置いてあった。
ここは、施餓鬼の供養であって、その塔婆を供養するところ。
お盆ではない、と言える。

餓鬼の供物は水の子、餓鬼メシ、水。
餓鬼がご先祖様への供物を食べにくる。それを追い払ってしまったらそのケチンボの気持ちによって自分が餓鬼道に墜とされることになる。
いや、そのケチンボの気持ちがすでに良くない。
だから餓鬼が来ても良いように餓鬼の供物として、この3つを用意して置く。

餓鬼は喉が細いから細かく切ってあげる。吐く息が炎になってしまって燃えちゃうから、燃えないように水を掛ける。
水の皿からミソハギに水を付けて水の子にかける。

盆棚に供えたものは餓鬼への供物にもなるだろう、というコメントを、禅宗のボーサンから別の記事にいただいているが、餓鬼の供物はこの3つだけに限定される。他の物は餓鬼の供物にはならない。
餓鬼メシも、お施主さんの家では、そういう認識ではなく普段のお供えのようにご飯を供えている家もあるだろうから、一般の家では、ここに厳密な線引きをするのは難しいだろう。
もし、餓鬼メシとして供えるならば、それは棄てる。餓鬼に供えた物を人が食べてはイケナイ。餓鬼になるから。
毎日供え直すなら、外に置けば鳥がついばむだろう。
仏具店のカタログでも、この3つ用の器がセットになって売ってるし。

ただし、水が微妙。水は両方かも知れない。
霊は喉が渇く、というから水を供えるとも言うから、ご先祖様への供物かも知れない。

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これは確か本山の刊行物に載ってたもの。
肝心の竹と縄の結界が無い。どして?

竹は魂の依り代になる。縄は結界。その空間にご先祖様がいる、というイメージ。

これも入り組んでる。
本山や、寺での施餓鬼会では、五如来幡を下げる。これは施餓鬼。
各家の盆棚には五如来は無くても良いが、施餓鬼もするからあってもイイ。

本来は低く作るべき施餓鬼壇を高く作るのは、儀式として必要なもので、ウチの修法では「浄地」というところで、真言で加持した餓鬼メシを私は、餓鬼壇の上に少量移し置くようにする。
詳しくは分からないが、他宗でも同じ概念なのだろう、米を撒いたり、黄檗宗では高い所にいる導師が下に餅を投げる。
「サバ」なのだろう。
ウチなんかの場合でも、床とかにご飯を取り置けば良いのだろうか?

「サバ」は「生飯」。「散飯・三把・三飯」とも書く。
食事のときに自分の食物から取り分けた飯粒。
屋根などに置いたり、外に投げ捨てるようにすればよい。そうして鬼神・餓鬼に供え、鳥獣に施すもの。
東大寺のお水取りの練行衆は、おにぎりのようにした物を、外に向かって投げていた。
これが我々が日常的にやる施餓鬼。
施餓鬼はいつやってもいい。
日常でもやる。

法要としても、春にやったり、秋にやったり。
お盆の時期に施餓鬼をやるのは、すでにかなり昔より習合しちゃってたからだろう。
今は少なくなってしまったが、お盆をすぎて施餓鬼をやるお寺も多かった。
そこで導師が読む「過去帳の文」の内容は、変わらず目連尊者の「盂蘭盆供」だ。これもオカシイ。

さて、春や秋に施餓鬼をやる寺ではどうやっているのだろうか?

故人や、ご先祖様が帰ってくる、というのは、日本の考え方で、仏教の理屈では説明できないし、ここを仏教的に、あるいは教義的に説明しようとする宗派は無いと思う。
これは、民間の信仰だ、ということでしか、我々の側からは説明出来ない。
その上に、仏教的なストーリーを乗せている。

でも、日本人に取っては、ご先祖様こそが一番大切なものでもある。
これを抜きにして、お盆は語れない。

盂蘭盆供も、施餓鬼も、この考えとは違う。
結局、この「ご先祖様の里帰り」という概念を、仏教は仏教の面から説明してこなかったのだ。今の今まで。
盂蘭盆供と施餓鬼という、違う概念を持ってきて、実は違うモノのまま行なってきたのではないか?・・・と、これを書きながら思った。

「ご先祖様の里帰り」に合わせて、それは処理できないので、仏教の理屈である盂蘭盆供と施餓鬼を当てはめて行なっているということか?
「ご先祖様の里帰り」と「施餓鬼」と「盂蘭盆供」がゴチャゴチャになって、でも、上手く融合していない・・・そんな感じにも思える。

盆棚には、竹と縄で結界を作る。その空間にご先祖様の霊が帰って来てとどまる。
盆棚は、縁側か縁側に近い座敷に低く作る。
台の上からマコモを垂らすと、ご先祖様へのお供物を狙って、そこを餓鬼が登ってくる。
お盆の月はこの世とあの世が繋がる時でもあるから、魑魅魍魎もウヨウヨしている。
餓鬼が供物を食べに来るのを拒否すると、そのケチンボの気持ちが自分を餓鬼道に墜とすことになるから、餓鬼にも施す。
しかし、餓鬼は一般的な供物が食べられないから、これなら食べられるだろう、と「水の子」を作ってあげる。

餓鬼は夕方以降に来る。
本来、餓鬼にとっては灯明もまぶしいし、打ち鳴らしなども驚かすから鳴らさない。

一般の家に「五如来幡」が必要かどうか?・・・施餓鬼もやるのだから、あっても良いのかも知れない。
我々は棚経にゆくが、ウチの宗派では「施餓鬼」のお経を読む。
これは、本来「施餓鬼会」で導師がする修法の所作の部分を取って読経だけにしたもので「略施餓鬼」と呼んでいる。
これは、目の前の餓鬼への供物を増やして、沢山の餓鬼に供養するためのものだ。
施餓鬼によって、自分は予善(よぜん・追善の逆。自分の後生の為に作善すること)を積み、そうすてば長生きできる、と言われている。
それによって「万霊にも平等に供養する」ということが大きな徳になる、ということに大きな意義をみつけるということを、お盆というものにくっつけているワケだ。

ちなみに、盂蘭盆供は、既に亡くなって、餓鬼道に墜ちた母親のために善行を手向けるという「追善」が目的となっており、盂蘭盆供と施餓鬼で、それぞれ、追善・予善という目的の違いもある。

この仏教的な理屈が、ますます意味の無いものになりつつある、今日この頃でもある、ということだ。








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