家族葬とは・・・(その2)

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本日、あるお寺の前住職の葬儀。
我々、何が有り難いって、葬儀に20人とか30人とか、或いはもっと多くの坊さんが来て、お経読んでくれるってことでしょ〜な〜。
・・・と思っていた。
良く思われて無くてもね、(^_-) 葬儀には、お寺のお付き合いで来てくれる。

3年前に父の葬儀をやって、お寺の葬儀とはいかにお金も手間もかかるか!・・・ということを実感した。

本堂の荘厳(しょうごん・飾りつけ)は葬儀社がやってくれるし、近隣のお仲間の寺が手伝ってくれる。
これは、以前の「組内(くみうち)」の仕事に似ている。

農家などでは、近隣の集まり「組」があって、葬儀などの時には、役割分担をして、手伝う。
「お互い様」というものだ。
「田植え」なんかもそう。
言うなれば「互助制度」というようなもの。

女性は食材を持ち寄り、煮炊きする。振る舞いの煮物などを作る。
我々も、葬儀に行くと、まず、煮物を食べてから行なうという感じだった。

男は、役場の手配、寺への使い、我々の送迎等々、それぞれに役割を振って手伝う。
終わってから酒など振る舞えば良い、というような感じの「お互い様」。

葬儀に行くようになったころ、団地とか、アパートの葬儀というのがあって「こういう所じゃ、班、って言っても、子供の送り迎えがあるとか、主人の仕事が・・・とか言って、集まりが悪い」という話を聞いたことがある。「こまっちゃうよ〜」と。
農家の「組」のような絶対的とも言える拘束力が無い、ということだ。

核家族が住宅地に集まる。
そういうところで葬儀があると、そういう「お互い様」は無いので、必要に応じて、葬儀社が生まれ、増えてくる。

野坂昭如さんの怪作『とむらい師たち』がある。
葬儀社の当時と「未来」が描かれている。

元々は「近隣の互助制度」で、葬儀にはベラボウなお金はかからなかったンだと思える。
かかるのは寺のお布施くらいのものだった。

それが、葬儀社を頼むことで、便利さと手間をお金に換える、ということになって、葬儀にお金がかかるようになって、現在に到る・・・ということかと思う。
葬儀とはお金が掛かるものだ、ということになってしまった。

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その問題と、寺への布施の問題がリンクしてくる。

この度の葬儀のボーサンがどんなボーサンだったか知らないが、この世代のボーサンは、割と強引にお布施をいただいていたんじゃなかろうか?・・・という感じがする。
戦後、ボロだった寺のアレコレを頑張って直してきた人たちだ。
結構強気のお布施を申し述べる人も多かったと思う。
贅沢なことをしている寺もある。
自分の所もそうかも知れない・・・と思いつつ、ホントに派手なことやってる寺もあちらこちらに・・・
Twitterなどに寺の批判を書くようなのが、実は良くわかってなくて、勝手に思っていること、ステレオタイプの己の中での勝手な助長などで言ってる場合が多かったりする。
(しかし、非難があることは真摯に受け止める必要がある)

葬儀はお金がかかる。
葬儀は大変だ。

親戚の葬儀など見て、このことが記憶される。

ここに、前の記事に書いた、タレントさんとかの「家族だけでのお別れ」というのが、優しく、本来のお別れのようだ、というイメージで刷り込まれる。

この二つがリンクして「家族葬」の誕生となる。


・・・続く・・・


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