家族葬とは・・・(その3)

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近年、NHKが【あさイチ】などで、葬儀の問題を良く取り上げる。
民法の他の番組でも終活とかをテーマにすることは多いが、そこに僧侶が呼ばれることは無いに等しい。
呼ばれるときは「知らなかった!墓参りのマナー」・・・とかいうような番組だったりする。
まあ「ぶっちゃけ寺」とかで、ボーサンが勝手なこと言ったりしていて困る、ということも多いので、ボーサンを呼んだからイイってものでもないけれど「コンサルタント」という肩書きで勝手なこと言ってる人が多いから、困る。

NHKの影響力は大きいので、そこで「家族葬」などと言われると、それが共通概念となりやすい、というか、なってしまう。
・・・なってしまった。

実感として、そういうコンサルタントとか、例えば「エンディング産業」と呼んでいる葬儀等に関わる人たち、業者、司会者なども「核家族」が多いものと思う。
戦後のベビーブームと呼ばれた世代が高齢者となり、そのまたベビーブームの人たちが中年域となり、第3次ベビーブームになるはずだったのが、逆に少子化になってしまった世代が20〜25世くらいになってる。
核家族も孫の世代になるわけだ。

これは何度も書いているけれど、そういう家には仏壇が無い。
つまり宗教が無い。
「宗」は「ウ」=「家」に「示」=「祀るもの」があるということ。
それは子・孫となって顕著になる。

そういう人たちがオウムなどに騙されてきわけだ。
オウムの信者たちが、既存の宗教、とくに仏教に魅力を感じなかったというのは、そういう「古くさい物」は「つまらない」というような意識があるように思う。
既存の仏教を批判的に見ていたが、実は、よく見ていなかったのだと思う。
見もしないで、ステレオタイプで批判的に見ていただけ、という者も多いとおもう。
それは現在に到っても多いと思う。

団塊の世代が学生運動で体制に逆らったことに通じるように思う。

体制=絶対的価値観、とも言える。

智山伝法院のお墓に関する講座の講師さんが、良いことを仰っていた。
相対的価値観」なんだ、と。
コレまでは「絶対的価値観」というものが厳然としてあったが、個人が優先されるようになって、様々な価値観が「相対的な物」になってきた・・・のが、現代である、と。

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例えば、村で行なう葬儀などが、まさに絶対的価値観で行われるもの。
土地に生きる上で、その共同体が持つ「絶対的価値観」。
行事もそう。お祭りとかもそう。そういうものがあった。
その延長線上で「葬儀はかくあるべき」とか、そもそも「葬儀はキチンと行なうもの」という「絶対的価値観」があった。

それが、核家族が進み、核家族の家の方が多いような時代となって、そういう、正に「文化」と呼ばれるものが無くなってしまったと言える。
そういうものに縛られないのが、核家族だ。

お父さんとお母さんから始まる家ばかりになってしまって「文化の継承」というものが、成されなくなってしまった。

生活のルールだってそう。
その家のルールはお父さんとお母さんが作る。
勝手な解釈、勝手な都合で、勝手なルールができてしまう。

例えば、団塊の世代のお父さんが亡くなったとする。
お母さんが喪主となって葬儀をするとしても、葬儀社に任せることとなる。
その時に「葬儀とはかくあるべき」という知識があればいいが、多くは無いだろう。
菩提寺だって無いだろう。
そこから始まる。
そのヘンでは、まだ「葬儀はお坊さんを呼んでお経を読んでもらって・・・」という「イメージ」はあるだろう。
「絶対的価値観」の欠片が残っているような感じだ。

しかし、おのお母さんの葬儀では、子供が喪主となる。
そこに至って、さて、どれほど葬儀に関する絶対的価値観は残っているだろうか?

そこに、テレビなどから無責任な情報が流れてくる。

絶対的価値観が薄いか、無い、というようなものだから、そういうものに流される。
「絶対的価値観」=「そうしなければならない」という心、でもある。
それが薄ければ「そうしなくてもいいんじゃね?」・・・となる。

葬儀に限ったことではない。
「文化」というものが無くなってゆく、ということだ。

「culture」は、もともとラテン語の「colere」に由来するもので「土地を耕す」という意味。
農耕民族が住み着いて土地を耕すことの繰り返しで、文化が生まれ定着する。

民俗的なもの、習俗というものが、ドンドン無くなって行く。
葬儀も、結婚式がそうであったように、画一化されてゆく。

習俗的なものを知らない世代が、そういうものを「ふるくさいもの」として、排除するということが、ためらいなく行なわれている。
映画『おくりびと』も、それを助長している。
本来「家族・親族がみんなでやった」しきたりを「他人が一人でやってしまう」・・・ということになってる。

ある程度は仕方ないにしても、その「宗教を知らない世代」が自分が知らないものだから、勝手に変えてしまう。
文化が継続されないどころか、変えられてしまっている。
これが、今の葬儀。

そこにメディアが加わって、加速させる。

初めは揶揄する言葉だった「直葬」も、平然と、恥ずかしげも無く、堂々と「葬儀プラン」に名を連ねる。
一日葬しかり、家族葬しかり。

家族葬は、お互いの気持ちを大切にした優しいもの・・・というようなイメージが作られてゆく。
そして、結婚式がそうであったように、葬儀にも「個性」を主張する風潮も出てきて、それらが合わさって、独自の家族葬のようなものが創造されてもくる。
こうなると、変形・変態・変体はとどまることを知らずに、進むことになる。
「エンディング産業展」など見ると、野放し状態と言ってよい感じに成ってる。

葬儀をするのに個性の主張なんてどうでも良いことだった。
むしろ、形式こそが大事だった。

そういう「絶対的価値観」を知らない人たちが「私らしい葬儀」などというくだらないものに注目することになった。

「相対的価値観」が主張し始めたら、積み重ねてきた文化は崩壊する。
そりゃそうだろう、みんなが勝手なことを言い出す訳だから・・・

その「相対的価値観」が、宗教を毛嫌いする、ということにもなる訳だ。

・・・続く?・・・





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この記事へのコメント

油注し
2020年02月22日 20:11
親類先で葬式がありましたが、妻子だけで済ますと参列を断られました。
その後、奥さんの話では、聞きつけた方が弔問に見えるので家を空けられないと言っていました。
葬式はきちんと出さないと後が大変になると教えられたのを思い出しました。
香典の整理を手伝うことがありますが、会葬者の数に係わらず香典で葬儀社に支払いができていることが多いようです。
三日ボーズ
2020年02月22日 22:26
コメントありがとうございます。

昔から行なわれている儀式・しきたりを、意味もわからないまま、そういうものは古くさいものと、簡単に否定してしまっている傾向が強くあります。
葬儀をも個人的なものにしようという傾向もあり、社会との決別でもあるという大切なことを認識できない人が、多い・・・という風潮には困ったものです。
90過ぎのおばあちゃんとかなら自然に家族親族だけになっても仕方ないでしょうが、メディアとかでも、仰るようなことまで言わない・考えないという傾向もあるようで・・・