時代はどこへ向かう・・?

DSCF8053.JPG
新型武漢肺炎の影響で、葬儀が簡単になってしまっている。

「今はイレギュラーなのだ。あくまでも」という認識だけれど、いつの間にか、これが「スタンダード」になってしまうのではないか?
・・・という気がする。

DSCF8072.JPG
多くのホールが、会場に入るのは、家族+αの10人を限度として、他の一般会葬者はロビーで受付を済ませたらその場か、会場内に入って焼香をして、帰っていただく、という方法をとっているようだ。

「家族葬」という言い方は嫌いなので、自分からは使わないようにしているのだけれど、結果的に、みんな「家族葬」のようになってしまっている。

「親族」も減らして、ホントの身内だけだと、お通夜の意味が「?」となってしまうのは、分からないでもない。
現在の通夜の形から考えると、ホントの家族だけの参列となったとき、通夜の意味がわからなくなって「通夜なし」という選択が成される。
武漢肺炎の渦中に何件かあった。

今日の葬儀は、葬儀にならず、あたかもコロナで亡くなったかのように、急いで火葬をしてから、寺に来ての「引導+葬儀のようなもの」だった。
亡くなった方は102歳。
特段の長生きをされて、最期がこれ、というのは、とても悲しいことだと思った。
直送でも一日葬でも、お施主さんの「決定」を否定するというのは、後悔や不安につながるので、なるべくはしないようにしているが、さすがに、ちょっと遠回しに否定的な話をした。

DSCF8060.JPG
「直葬」
「一日葬」
「家族葬」
・・・いずれも、いつの間にか誰かがいいだして、それが一般的になってしまったかのような状況になってしまった。
今、どこの葬儀社も「葬儀プラン」にこれらを掲げる。
おそらく、疑問持つ持たないに関係なく、そうせざるを得ない、そうしないと競争に勝てない、という意識なんだろう。

「直葬」は、もともと、今は無き『月刊SOGI』の碑文谷さんが、揶揄して言ったことだったのが、いつの間にか、当の葬儀社が喜んで使っている。
「葬」の字は入っているものも「葬儀」の如きモノをやらないこと。
死後24時間は火葬が出来ないから、病院からどこかの安置所(これだけ持っててホールを持たない葬儀社がある)において、火葬場に持って行く。

DSCF8065.JPG
「一日葬」は通夜をやらないもの。

通夜とは何か?
・・・と言われれば、ワタシが思うには・・・
昔は「死」は決め難いものだった。
今は、医師の「死亡診断書」が無いと葬儀ができないが、それは近代以降のこと。
それまでは「死んだのかな?」というトコロから始まる。

だから葬儀のしきたりは「身内がみんなでやる」が基本。
映画『おくりびと』の大間違いは、それを「他人が一人でやってしまった」ということ。
最近、それを真似して葬儀社がやってるのはいただけない。
本来の意味が分かってたら、そうはしないはずだ。
『おくりびと』の「納棺師」さんも、その肝心要のところを理解していなかったのだ。

人が亡くなったら・・・
本来なら、天台宗の念仏結社「二十五三昧式(講)」というものにあるように、亡くなる「際」に回りで念仏を唱えて、往生を願う。
それが「枕経」となる。
一般的には、亡くなった報を受けて、我々が駆けつけ、枕経をやる。

「通夜の読経」というのは、多くは無かったものと思える。
「通夜」は文字通り「夜を通して」誰かが側にいる。
魔が入らないように、というように言う向きもあるが、そうではなくて、蘇生するかも知れないからなんだと思える。

生き返ったら一膳飯を食べて「氣」を養う。
あのてんこ盛りのご飯はそういう意味だと思える。

形は、土まんじゅうで、立てた箸が墓標にも見え、墓を模しているようにも見えるし、箸は依り代にも見える、という考え方もある。
では「どうしてご飯なんだ?」と考えると「氣を養う」ということが一番相応しいように思える。

「氣」は中に「米」と書く。
「氣を養う」のは「米」なのだ。これが日本人の基本中の基本。
「氣」は「命」。

人は、氣(=命)を枯らす何かが身体に着くから、氣が枯れて死ぬのだ、と考えた。
氣を枯らすものが「ケガレ」である。「氣枯れ」だ。
「ケガレは伝染する」・・・これが、日本人の死生観の根本にある。

DSCF8068.JPG
一夜が明けて「やっぱり起きてこなかったか・・・」で始めるのが葬儀。
だから「通夜式」というのは無かった。
ウチの檀家さんでも、通夜をやるのは地域(部落)に拠ってだった。
やらない地域もあった。
通夜(式、あるいは読経)を必ずやるようになったのは、ホールで葬儀をやるようになってからだ。

言葉から見れば「通夜式」と言われたら、夜通しでお経読まなきゃならない!
高野山の常楽会みたいなものだ。

そう考えると、現在の「通夜式」というものに大きな意味は無いが、それは、自宅で「式」ではない「通夜」をすれば、ということだ。
通夜の読経は要らないけれど、その場合は、枕経をやるのが前提。
それも自宅で亡くなったからできることで、病院の集中治療室で亡くなって、(葬儀社の)霊安室からホールへ移して葬儀ということになると、枕経の入る余地がなかったりする。
そういう意味でも通夜は必要、ということになるわけだ。


・・・続く・・・


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

タロウカジャ
2020年06月08日 02:23
コロナ騒動の後は、生活様式や働き方が変わるでしょう。
これで十分だと気が付いて簡素合理化がある程度なされると思います。
街の景色が味気なくなり、生活も何となく軽い様式になるのでしょう。
そしてカメラ業界の衰退を見ていると止まらない止められないと思います。
アナログレコードの様になるのかなと想像します。
ひるのいこい
2020年06月08日 15:40
こんな風景 時系列で撮ってみたいなぁ(あ、そういう話ではないですね)
うちの祖父の時(40年くらい前)は 枕教もあり おばあさんが三人来て
ご詠歌の鈴鳴らしてたのを今でも覚えています。うちの母の時は
本人の強い希望で在宅での死亡確認後30分で葬儀会館へ(自分で見積もりから指示までしたある意味頑固者)でした。でも、通夜と葬式はきちんとしましたけどね。 一心寺が墓じまいによる転墓(というのですか?)受け入れ拒否になり、うちもそのうちには墓じまい考えざるを得ないですから(妹は東京で嫁いでますので墓の管理は無理) 自分できちんとしておこうと考える(考えるだけまし?)のであります。
三日ボーズ
2020年06月08日 16:29
「新しい生活様式」とかいうものは、どうも確実にありそうで、葬儀の形態にも、コレまでの流れにダメ押しのかたちで、簡略化が成される予感はします。

お墓の継承が不可能になるケースは、それとは関係なく、着々と増えている様子。

ひるのいこいさんのおっしゃる一心寺とは「骨仏」の?
今、ググったら、改装が増えすぎて対応しきれなくなったという、モロに現代を反映したお話じゃあ〜りませんか〜。