時代はどこへ向かう・・・?(その2)

ホールになって通夜の意味が変わってしまった。

かつて通夜は、近所の人と近い親戚が参列すれば良かった。
通夜に、礼服を着て行ったり、香典を持って行くなどはもってのほかだったはずだ。
「急な知らせで駆けつけた」のだから、平服であるべきで、クリーニングしたパリパリの礼服じゃ「用意してましたよ」になってしまう、というものだった。

それが、ホールでの葬儀になって、葬儀に出られない人が「通夜なら行けるから」と言って参列するようになった。
通夜の方が参列者が多い、というケースばかりになっている。

参列できない人が電報を打つのであって、電報を打ってる人が参列もしている、というヘンなことが、我々の葬儀などよくあったりする。
電報も形式になってる。
我々の間では「ボーサンの葬儀には関係組織が弔電は必ず打つものだ」ということ(形式)になってしまっている。

ついでに言えば、葬儀には、地元政治家の弔電が必ずと言っていいくらいある。
およそ関係の無い人に弔電を打つのが、名前を覚えてもらうことになるだろうという、対選挙への地道な努力だが、毎度毎度シラケる。
政治家の肩書きでの弔電は選挙違反でいいんじゃないだろか?

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ある僧侶が「葬儀の日に通夜もできませんか?」と聞かれたと、Twitterに書いていた。

通夜とは、葬儀といっしょにやるとか、そういうものではない。
そういう風にしてやらねばならない、というものでもない。

言葉の意味も考えない人たちが葬儀を取り仕切ってるということに暗澹たる気持ちになる。

ワタシは通夜と葬儀ではお経等の内容を変えているが、本来なら、同じでいい。
通夜の法要に決まった形は無い。
我々なら、本来は「何でも理趣経」だ。
だからこの葬儀社の言うようなこと・・・「まずお通夜をやってから、葬儀をします」というようなことは、あり得ない。

なた、たとえ通夜と葬儀の読経等の内容が違っても、それを並べてやる意味は無い。

ウチの地域では、農協のホールが出来たときに、通夜は自宅でやって、葬儀はホールで、という暫定手段が取られたことがあった。
これは、通夜に意味が分かってたからやったこと。
さすがに面倒なので、これをやった時期は短かったけれど・・。

だから「一日葬」というのは無きにしも非ず・・・ではある。
それは、通夜の意味が分かっていれば、の話だ!
そんなことを知りもしないで勝手に葬儀プランに「一日葬」というのを入れいてる葬儀社の考えと、知らずにそれにしてしまう施主さん、という今のあり方は違う!・・・というしかない。

「家族葬」というのは、いうなれば「密葬」のこと。
会社の社長さんとかがやることが多い。密葬と本葬(社葬)。
我々も、密葬を家族でやって、本葬を檀徒葬としてやることが多い。

公私の「公」が大きい、政治家さん、タレントさん、社長さんなどが、公私を分けるためやる。
タレントさんの場合「葬儀は身内で済ませました」というのをよく聞く。
これが「家族葬」に転化したのだと思う。
しかしその場合、必ず「ついては、後日お別れの会をやります」ということになる。

葬儀は「家の宗旨」でやるが「お別れ会」は宗教を抜きにする場合が多い。
いろんな立場(信教)の人がくるという意味もある。
これが「告別式」である。

本来は葬儀でない(宗教が入らない)ものを「告別式」という。
これは、明治時代の中江兆民に端を発することで、これは明確に定義できるのに、最近は「葬儀並びに告別式」と司会が平気で言ってる。
この場合、私らがお経など読んでる部分が「葬儀」で、花を入れたり挨拶したり、と言う部分が「告別式」と言えなくもない。
でも、ワタシが引っ込んだ時に「葬儀並びに告別式を終了します」という司会は多い、と言うか、ほとんどだ。
これもおかしい。
言葉の意味が分かってない!

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本来、宗教が入らず「家族だけ」で「葬儀のようなことをする」というのが「家族-葬」だ。

タレントさんなどの「葬儀は家族だけで済ませました」というのと、創価学会がやってる「友人葬」というものの、合体が「家族葬」だと考えられる。

創価学会は、かつての母体・日蓮正宗に破門されたことで、正宗のボーサンに葬儀を頼めなくなり、自分たちでナントカするということで編み出したのが友人葬というもの。
本来、正宗に破門された段階で、創価学会は宗教では無くなってるのだとワタシは思ってる。
グループでお経は読むが、引導はできない。・・・これが創価学会の「友人葬」だった。
その意味合いに家族葬という言葉が合わさった。

しかし、葬儀社は、葬儀の規模を表す単位のような感じで、直葬・一日葬・家族葬という言葉を使っている。
「プラン」という感じで扱っている。
本来の意味も何も知らずにそうしているのが多くて、というか、ほとんどなので、困る。
知識が無い者が多すぎて困るのだ。

ワタシからみれば、すべてが「葬儀」で、家族葬という言葉など関係ない。
葬儀の規模も、もっと言えば、お布施の額も関係ない。
やることは同じ。
やむを得ず直葬となっても、後で寺に来てもらって、やることはチャンとやる。

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この新型コロナ武漢肺炎騒ぎで、全部が否応無く「家族葬」のようになってしまって、葬儀の扱いが簡単になってしまっている。
これが、「スタンダード」になっては困る。
亡くなった人を、その人生を葬るということを、簡単に考えるようになっては困る。
元々あったそういう風潮に、武漢肺炎が追い風となるようでは困る。
いや「困る」というと、ボーズが儲からないから困るんだろ?!・・・という向きもあるかも知れない。
そういうことではない。

信仰を揺るがす、ということでは「困る」とも言える。
自分は、今の信仰があるから、勤めていられる。
家族を亡くした人たちの気持ちが、死を軽く捉えるようになっては、自分の信仰が否定されるような気持ちになる。
そういく意味では、確かに「困る」。

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この記事へのコメント

タロウカジャ
2020年06月09日 19:10
ご住職のお説教として読ませて頂きました。
死を軽く扱うことは、人が生きていくことも軽いものになるのでしょう。
この風潮を時代ですからと納得はしたくないです。
1日葬とやら
2020年06月09日 21:06
おっしゃる通り。お金の多少では無いと思う。通夜、葬儀の意味や意義を伝え、実践すべきであると思う。布施も金額を決めずに随意が良いと思う。
例えば、通夜、葬儀、初七日を別にして合計のお布施が5万円(食事代と車代も含む)ということもある。お布施をお供えいただき、大変有難いことである。信徒さんはそれぞれ財政事情があるので金額の多少ではない。
しかし批判承知で言うと、その場合は、通夜無し、式中初七日で同じ5万の方が納得がいく自分がいるのも正直なところである。坊主としては失格だが。
三日ボーズ
2020年06月09日 21:41
施設で亡くなり、身寄りが無く、後見人さんが喪主になって、葬儀場の霊安室のような所で葬儀、というのが以前何件かやりました。市の補助金でやるので、葬儀社も私らもその範囲内の金額で、というものです。
最近無いのは、もしかしたら直葬をしちゃってるのかもしれませんね。
施設に入っておられるくらい長生きされて、最期が寂しいというケースでは、せめて、自分がキチンと葬儀をしなければ、という思いになります。

一方、施設や病院にお金がかかってしまって、葬儀にお金がかけられない、という声も多く聞こえてきます。
一応、前住職が決めていたお布施を提示しますが、顔色を窺う感じで、負担にならないところで、と言うしかないですね。

また、一方で、ただ単に簡単に済ませたいという考えの人もいて、同じ命を葬るのについて、いろんなケース、いろんな思い、様々で、悩むところです。