久し振り、自宅で通夜

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先日、久し振りの自宅での通夜だった。

いわゆるホールを持たない葬儀社へ依頼して、火葬場での葬儀だったが、お通夜を故人と共に過ごせないのはイヤだ、と、お施主さんが申され、自宅での通夜となった。
そのお施主さんにとっては、通夜とはそういうものだ、という思いがあった、ということだろう。
それは、これまでの経験から「そうでなかればならない」ということが心にあった、ということ。
それを「絶対的価値観」という。

かつては、家で、村(あるいは部落)で「葬儀はかくあるべき」という決まりがあった。
そういう生活の場の掟のようなもの、共通認識、というものが厳然と存在していた。
そういう「決まり」に則って「共同で行なう」ということに意味があった。
それこそ『風の谷のナウシカ』の「風の谷」や『未来少年コナン』の「ハイハーバー」のような「共同体」を維持するには、そういう概念、共通認識や決まり事が必要だ、という事もあるが、掟に従って、みんなもそうだから、私も同じにする、ということによる安心感、というものもある。

お施主さんにとっては自分が思い描いていた通夜と違う形は納得できなかった、ということだ。

葬儀とは、風習であり、慣習であり、宗派とか仏教とかいう「くくり」より、民俗学の分野の方が適切と思えることが多い。

宮崎駿さんのアニメーション作品には「原始共産主義」というような共同体=村、というものがよく描かれる。
そこに、人間の生活の理想を思うのだろう。

「カルチャー」の語源は「耕す」ということだ。
定住し、土地を耕して、そこに世代を越えて住み続けることで「文化」が生まれ、根付く。
日本も、最近までこのようなものは確かにあった。
文化が、やがて「文明」というような物になって、それが進みすぎると「生活」を蝕んでゆく。
宮崎駿さんの作品のベースには、そういう観念があると思う。

そういった「慣習」の類いが崩れてきている。

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文化の積み重ねを崩しているのは「核家族」というものだ。
核家族というものが、そもそも文化というものに対しては否定的な存在だ。
土地を耕して住み続ける、という道を捨てたのだから。

核家族とは「お父さんとお母さんから始まる家」ということ。
その家に継続する「文化」が無い、ということ。
「家訓」というものは旧態依然というべきもので、現代には相応しくないもので、排除べきものだ!・・・と思われているだろう。
家の掟のメリット(デメリットであるとも見られるだろうが)は「個人の判断が生きない」ということだ。
「個」の嗜好・思考は排除される。
個の思いはあっても、表だっては出ないことで、形式が守られる。
それは「文化」でもある。
文化を守ることなのだ。
そうでもしなければ、文化は守られない。

今の社会が無くしているのが、この「習俗・文化」というものだ。
自然に、というよりは、排除するベクトルを感じる。
そういうものを忌み嫌い、個の自由を尊重する、というのが、進んだ社会、これからのあるべき社会の形、という雰囲気を感じる。

これが・・・
「個の自由」=「わがまま」という方向に向かうことは容易いことである。

それを「相対的価値観」という。
これは「身勝手」でもある。

今は、戦後のベビーブームの孫の世代。
この世代が20代を構成する。

「家」に継続する「文化」には「宗教」も入る。
いや、宗教こそが、文化であり、道徳でもある。

核家族の家には、仏壇も無ければ、お墓も無い。
これからのこのヒトタチが問題とするのは、ここである。
具体的な形としての仏壇もお墓も無い・・・という家が、多数派となって、今後の問題となっている。

それ以前に、核家族には宗教が無い。
「宗」というのは「ウ=家」に「示=祭壇」と書く。家に祀る物である。
それすら「自由」だと思っているフシがある。
自由なんだから、宗教なんて強要されるものではない、と胸を張るのだろう。

しかし・・・
文化とは教養でもある。道徳でもある。
それを持たない自由とは、ただのワガママである、ということに気づくべきだ。

そういう「自由」が、真っ先に排除しようとしてるのが、葬儀の風習である。
「風習」という意味も分からないクセに、勝手にワガママで排除しようとしている。

葬儀社がそうなのだ。
葬儀社の人間も、そういう「自由」の中に育ってきた人たち。
「こうしなければならない」という、絶対的価値観を持っていない人たちだから・・・
葬儀の風習を変えることに怖れを抱かない。
むしろ「変えるべきだ」と思っているフシも見受けられる。

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・・・と、まあ、珍しく(?)エラソ〜に断定的な文体で書いているけれど・・・それは、この後に書くことがあるから、逆に強く書いている。

実は、日本の仏教・各宗派は「絶対的価値観」を持ち得ていない、という大問題があるから、だ。
「宗派」という相対的価値観の中にいる。

「死」あるいは「死後」の問題に対して「ひとつの答え」を持ち得ているワケでは無いのだ。
この認識を持ってる人(僧)は少ないと思う。
意外に、宗派の殻に閉じこもっている僧侶は多い。
あるいは「他を知らない」という言い方の方が良いかも知れない。

浄土真宗とか、浄土宗の方に多いけれど、よいく「仏教では・・」という言い方をする。
しかし、それは「仏教」ではない。
仏教の日本における一宗派の論理に過ぎない。
宗教というモノも、そのグループの中では絶対的価値観であっても、俯瞰してみると相対的価値観、ということになる。
これを理解してないのが、宗教の側に多い。
「信心」という絶対的価値観は大切だけれど、相対的価値観をも理解する必要があると強く思う。

人間という生物が死んで「その後」があるのか無いのか?・・・その問題からして、答えは「ひとつ」だ。
しかし、世界中に色んな民族があり、それぞれの考えがあり、色んな宗教があって「いろんな死後」がある。
日本の仏教に限ったことではないのだ。
世界中が相対的価値観で成り立っている。
「村」という範囲で考えれば、成り立つ絶対的価値観も、見る範囲を広げるほどに、相対的な物となる。
あたりまえのことかも知れないが・・・
元に戻って、考える範囲を狭めた物が「文化」と言うことであるわけだ。

「お父さんとお母さんから始まる家」では、お父さんとお母さんの「教養」から「ルール」が生まれることもある。
二人の、あるいは、ひとりのワガママからできるルールもある。
それが「家」の中での絶対的価値観になるというものでもある。
怖い話だ。

分からないことはネットを頼る。
するとソコには、本当の世界と虚構の世界が入り乱れている。

お盆の「しきたり」ひとつとっても様々。
どこか誰かが書いたことが、間違っていても、それがコピペで広がってしまっている、ということも多い。
コピペだとイカンと思うのか?、勝手に自分の判断を書き加えたりする者もいて、どんどんズレてゆき、それが、コピペで広がって、また改悪されて・・・という広がり方をしている、という事もある。

ネットという目に見えない世界に、トンデモナイ相対的価値観が、泥だらけになっているのだ。
まったく以て、メチャクチャな世界となっている。

自分の家に文化も教養も決まりもないからといって、頼るネットは、もはやどうしようもない、文化と教養を破壊するメディアになってしまっている。
無知とワガママが入り乱れた世界だ。

ネットというものは、一歩間違うと「文化と教養」とは真逆の存在になってる、という認識は持つべきなのだ。










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