彼岸へ至る・・

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彼岸明けの深夜10時頃、あるお寺のおばあちゃんが逝去された。
医師の死亡診断が夜半を越えて26日の逝去となったが、彼岸明けに亡くなるとは、ありがたい。

支所内寺院の葬儀の場合は、支所長が仕切ることになっているが、支所長の寺の葬儀は、副支所長が仕切るらしく、我がお役目となった。

「看取り期」というんだそうな。
例えば自力で食が取れなくなっても、延命的措置をしないで、自然に任せるというようなもの。
そうなって、毎日住職がプリンのようなものを食べさせに行っていたそうだ。
認知症が進んで、それが息子とは分からなくなってしまっていたらしいが・・・
91歳、大往生か。

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さて、今月中の葬儀となって、大忙しになる。
天気は荒れないようだ。
この寺の先代の葬儀の時は、大嵐だったのを思い出す。

父の時のバタバタを思い出す。

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お彼岸というと、お盆と並んで、仏教の行事の代表のような感じだけれど、お盆と同様、あまりそうではない、という感じであります。

お盆に関する仏教の理屈、阿難尊者と目連尊者の故事は、もはや通用しない、という感じになっているように、お彼岸に関する仏教的理屈も、一般ピープルの意識とは乖離しているという感じがします。

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曰わく・・・
中日に先祖に感謝し(墓参り)、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされているを1日に1つずつ修める日という。

この・・・「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める・・・というのが、なんかおかしい。
六波羅蜜を6日間守る、というならまだいいのだけれど、一日イッコ、というが・・・どうも・・・・

民俗学の五来重さんは「彼岸」という言葉は、豊作を太陽に祈願する太陽信仰の言葉の「日の願い」が「日願(ひがん)」で、これが仏教語の「彼岸」と後から結びついたものであろうと仰いますが、これも、いまいちピンとこない。

まず、春分・秋分の日ということは、国や民族に関係なく、多くの古代遺跡にこれに関するモノがあるように、古代人も把握していたのだろうと思う。
まず、これがあった、ということは確か。

彼岸か日願かは、分からないが・・・
仏教としては、太陽が真西に沈むということが、浄土系の「西方極楽浄土」からきて、これが「彼岸」、つまり「仏様の世界、悟りの世界」となって、ソコへ至る方法としての「六波羅蜜行」が添えられた、ということだろうと思える。
これに「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める・・・ということは、いかにも取って付けた感がある。

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真西は極楽浄土がある所。
浄土系の考えで言うなら、死んだら阿弥陀様が迎えに来てくださるのだから、修行は必要ない。
そういう修行などを排したのが南無阿弥陀仏の念仏なのだから・・・と思うのだけれど。

浄土宗の公式HPには・・・「極楽へのあこがれを起こす日」として以下のように説明している。

春分・秋分の日を中心(中日)とした一週間の期間に勤める、先祖追善供養の法会(ほうえ)。
「彼岸」とは、私たちが生きる、苦しみに満ちたこの世界(此岸(しがん))とは対照的な、向こう側の世界、つまり極楽浄土を意味します。
浄土宗でよりどころとするお経の一つ、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には、「極楽浄土のある西の彼方に沈みゆく夕日を観て、浄土を想え」との修行法(日想観(にっそうかん))が説かれます。春分・秋分の日には太陽が真西に沈むことから、極楽浄土への憧憬(しょうけい)を新たにし、そこに先立った先祖を供養するのに最も適した時期として、平安時代以降、盛んになったとされています。


極楽へのあこがれを起こす日というのは明らかにおかしいわね。
浄土宗の信徒さんがいまさら「憧れを起こす」というのを、繰り返し思うと言うことはないだろうから、本文にあるように「極楽浄土への憧憬を新たにする」・・・ということで良いと思う。
これでも「今更感」があるですが・・・修行と書かないところは、良いと思う。

では、わが智山派はどうかというと・・・

これは自分自身だけでなく、多くの人と共に悟りを求め、充実した生活を送ることを願ったものです。ですから、本来は日常生活の中にこそ、彼岸を求める行為が大切となります。しかし、日々の生活に追われていると、大事なことと思いつつも、ついおろそかになりがちです。だからこそ、せめてお彼岸のあいだは、腰を据え、しっかりと考える時間を持ち、心安らかな彼岸を求めましょう。
彼岸会法要はこういった考え方をもとに行う法要で、彼岸を求める行いのひとつであるご先祖さまのご供養をします。


・・・というのが、公式HP。

最後の1行は、間違っていると思う。
先祖供養は、「彼岸を求める行いのひとつ」ではない。

六波羅蜜行とは・・・

1.布施波羅蜜・・・分け与えること。具体的には、財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)なども布施。
2.持戒波羅蜜・・・戒律を守ること。在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。
3.忍辱波羅蜜・・・耐え忍ぶこと。
4.精進波羅蜜・・・努力すること。
5.禅定波羅蜜・・・心を集中して、散乱する心を安定させること。
6.般若波羅蜜・・・智慧波羅蜜ともいわれる。彼岸に至る智慧。

仏教のこういう並べ方の場合「ひとつと、ひとつと・・・全部」という風になることがおおい。
これも「五つと全部」になってる。と私は思う。
十善戒の10番目「不邪見」が前の九つ全部を含むニュアンスになってるし、三毒の「貪・瞋・癡」も「癡」の中に「貪・瞋」は入っていると思える。

同様に、六波羅蜜も「前五波羅蜜」は、この般若波羅蜜を成就するためのもので、ここで完成する、という意味があるのだと思うのよね。
だから、これを6日に分ける、という言い方が安易な思いつきのように思える、ということ。

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これはあくまで「自分の問題」だ。
日本では、お盆と同じように「ご先祖様」という、仏教には無い概念を結びつける必要があった、というか、自然か必然で、そうなったのだろう。

いまは、仏教側がどう説明しても、これら仏教的理屈を理解するどころか、認識している人すら、極めて少ないと思う。
お盆の「万霊供養」の概念も難しく、ただ「故人や御先祖様が帰って来る日」という認識しかないのと同じように。

墓参りも、彼岸中の都合の良い日にやってるだけで、お中日の意味も薄れつつある。
どうも「入りの日」と「明けの日」にお墓参りをしている人もいるようで、そうなったら、お盆とゴッチャ。
ただ、墓参りの日、ということだけ、になっている感じがする。

これを「改める」のは、難しい、と思う。

宗派によって、違う概念を持って、それぞれに説明しているということも、おかしなことだ、という認識が必要だとも思う。

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