人の行く末・・・

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世界中に、色んな民族・宗教があって、死んだらどこへ行くか・・・が違う。
本来、人間という生物が死んで、どうなるのかは「ひとつ」だ。
しかし、どうしてそんなに色々あるのか?
それは「分からないから」だ。
分からないから「理想の世界」を作る。

我々は「極楽」という。
「極めて楽」・・・もう身体が無いんだから、身体の痛み苦しみが無い。
そして、心の痛み苦しみも無い、そういう所に行く。

・・・というようなことを日本中のボーサンが言うわけだけれだ、誰も見てきた人はいない。
ただ、そう思っている、というだけ。
ワタシも死んだら「ごめん、違ってた」ということがあるかも知れない。

でも「そう信じてる。そうであって欲しい」ということ。
これが大事。これが宗教。

でも、絶体にある「あの世」がある。
それは生きている人の心の中、記憶の中。
そこにずっと生きている。

生きているウチに沢山の人とかかわれば、沢山の人の心に生き続けることになる。

そこを地獄にするのも、極楽にするのも生き方次第。
「いい人だったな」と思っていただければ、その「あの世」は極楽になる。

それが「限りある命をどう生きるか」ということ。
人間の命には限りがある、ということを、亡くなって逝く人は生きてる人に教えてくださるのだ。
「ちゃんんと生きろよ」と。

・・・こんな話を通夜でしていた。
最近は、通夜は副住職の役割になったので、行ってない。

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聴いてくださってる方々は、皆が真言宗の人ではないので、宗派の話をしても仕方が無いし、失礼だと思っているので、宗派色が入らないように、一般的に分かるように、と思って話している。
お施主さん一家いがいだと、真言は、1割いればいいくらい。
何度か、手を上げていただいたことがある。

日本の仏教は、同じ仏教と言いながら「教義」という厄介な物があって、例えば、死後の問題ひとつとっても、勝手なこと言ってると言えなくもない。
宗教で違うのは仕方ないにしても、同じ「仏教」で違うというのは困ったものだ。

その前に「死んだらどこへ行くか?」ということも問題。
死んだらどこかへ行くのか?・・・ということが問題になる。

これは、仏教ではないと言って良いと思う。
これは日本人の仏教以前の考え方だ。
縄文時代の遺跡の墓の在り方を見ると「死んでも何かが継続する」ということが根本にあるように思える。

「天国から見守っててね」というヤツである。
縄文時代の遺跡を見ると、亡くなった人は、亡くなった後も、村(または人)を守っている、という概念を持っていたのではないか、と思えるのだ。

亡くなったひとは、亡くなったあとも、どこか別の世界にいて、生きている人を見守っている。
これが、日本人の死生観の根本にある。

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「死んだらどこかに行く」という考えは、こういう日本人の思考から来たものだろうと思える。

民衆に浄土教が広まるまでは、仏教は国家が抱えるもので、ボーズは公務員。
奈良仏教のころから、真言・天台までは、国家のために祈祷をするものだった。
現是利益の祈願こそが仏教だった。

しかし、平安も後期になると、争いごとばかりで、都も荒れ、肝心のボーズも、寺同士の争いをする始末。
まさに「末法」の様相となって、現実の苦しみが極めて大きくなって、救いが無いような感じになってきて、生きていることが苦であるという状況に、浄土教が広まる。
この世は諦めて、来世での成仏を祈ろう、という気持ちになる。
これが念仏の広まりになったんだと思う。

同時に、死を弔う、ということに気持ちが向く。
田舎はどうだったのかは分からないが、都では、占いが政治のバックボーンとなっていたから、一番避けるべきは「死の穢れ」ということになり、死を遠ざけるようになる。
恐らく、宮中に真言院など作っていた空海様なども、死を避けていたに違いない。
亡骸は放って置かれた。

それが不憫である、ということから、長いことかかって、僧侶が弔いをするようになるのだ。
天台の「二十五三昧式」というのが、その争議の概念のハシリである。

そこから「行き先」である「極楽」というものが人々の心に入り込んでくる。

そして「死んだあとの行き先」というものが具体的に「極楽」となってくるわけだ。

じつは、これは、縄文時代の「死んだら、その後も、その魂のような物は、どこかで継続している」ということから変わっていない、ということでもある。

だから「死んだらどこへ行くか」ということが、今でも問題になる。

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これが、宗派によって違うからヤヤコシイ。

だから、一般ピープル的には、そういうのを超越した「天国」という概念が、なんとなくだが、存在しているのだ。
教義という理屈ではないものがソコにはある。

今ある「天国」のイメージは・・・
どうも、苦しみは無いようだ。
また、生きている時と同じようなことをしているらしい。
歌が好きな人は歌ってるとか、釣りが好きな人は釣りをしているとか、やっぱり「その人のまま」でいるようだ。
でも、何か力がある。
見守っていてくれる、という力がある。

・・・そんなイメージだ。
これが、皆さんが思い描く「あの世」。

これに、各宗派の「教義」は齟齬する。
どの宗派の教義も、結局、太刀打ちできない。
理屈では無い、ということだ。

難しい理屈なんてドーデモイイ!

「成仏」というのも、宗派の言う成仏では断固として、ない。
魂の安寧、安定、そういうものだ。それでいいのだ。
生きている人、家族・親族・友人等は、ただ、それを願っている。

それが、日本人の死生観なのだ。

では、仏教は、その死生観の中で、何をしているのだろうか?!


・・・・続く?





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この記事へのコメント

007
2020年10月03日 11:08
宗教の自由、、、ってありますね、。

政教分離も、、、まあ、相変わらずの自公連立政権だけど、。

死後の世界、、、国際的に比較して日本人は一般的に先の事をかなり心配する民族との事です、。

還暦後は小生も先の事を良く考えるし、想定して行動計画して実行中です、、、、、、、素人意見ですが、ザックリ・・・メンタルコントロールが重要でしょうか、。
007PS、
2020年10月03日 11:16
最後の絵ですが、イイですね。。。
オリンパスですか、、、癖無くGOODな画質です。。。
・・・やっぱ彼岸花は赤ですね、、、シンプルな構図に赤のアクセントは映えます、、、計算されたフレーミング撮影と観(診)ました!(^^)!
三日ボーズ
2020年10月03日 12:03
日本人は亡くなった人のことを大切にする民族で、ご先祖様という、もう誰だか分かんないような人すら大切にします。
平安時代の終わり頃からか、日本人は、自分の行く先を考えるようになってきたのだと思います。
しかし、来世があるにしても、現世は現世。
これを精一杯生きなければならないわけで、そこが大切であるということは、人間なら誰しも同じ、ということですね。
三日ボーズPS.
2020年10月03日 12:52
オリンパスの120mm相当のマクロが使いやすいです。
画角とボケ方が良い感じで、フルサイズの120mmだったらボケすぎてしまうところだと思います。

μ4/3も、いいんじゃないか?
    ↓
μ4/3で、いいんじゃないか?
    ↓
μ4/3が、いいんじゃないか?

という心の変化を感じます。
007
2020年10月03日 13:01
μ4/3でいいじゃないか・・・オリンパス健在で、動体AF性能が良ければ、、、
センサーも性能アップしていくだろうし、、、
という条件?付きで可能かと思います。。。
三日ボーズ
2020年10月03日 13:11
ミレーレスは、どのメーカーも、連写の時のファインダー画像の見え方がダメなので、連写とかには、現時点で向いているのは無い感じですね。
光学ファインダーが、しばらくは有位だと思います。
余程のブレイクスルーが無い限り、しばらく、だと思います。

ペンタックスのように名前を使える可能性もありそうですが、ペンタックスも止まってる感じがしますね〜
心中するゾと言うほどの入れ込みはありませんが、使いやすいので、使えるだけ使って行こうとは思っています。