孤独。命。SNS。

「孤独が辛い」
「自分は独りだ」・・・と夜中にTweetする人がいる。
「大事なことやと思うんです。ひとりだという自覚は。」
「五蘊を意識すると、独りということが認識できると思いますよ。」
・・・と答えるボーズがいる。
違和感を覚える。

なんだか、ボーズの言葉が、歯の浮く言葉に見えてくる。
なんだか、自分はいい人なんですよ〜、良いお坊さんなんですよ〜、と言っているようで、こういうボーズのキモチワルイと思うことが多い。

そういう事への反発もあって「孤独なTweet」にちょっと強く返信してしまった。
ここ毎日のように葬儀の打ち合わせをしている。
生きられなかった命と、それを送る人たち。
そんな話をきいていて、なおかつ、友人の死などもいくつも経験していると、自分の命を軽んじることや、死に損なったというような言い方には「ぶん殴りたいくらいだ」という言葉を投げかけてみた。
平和などこ向いているかワカンナいボーサンの惚けたTweetに抗う気持ちもあった。
「死ぬのは平気だ」というようなことをTweetする人に対して「甘えるな」と返すのは厳しいことだろうか?
結果として、良くない判断だったと反省している。
こういうのは、何でも無い人だったら「独りなワケないだろう」「生きたくても生きられない人がいるんだ。死ぬなんて言うな!」といいたいところだけれど、例えば、鬱病であるとか、以前鬱病になって今も薬を飲んでいる人に対して言ってはイケナイことだということは、聴いたことがある。
カウンセリングとか心理学というものは100%信じられないゾ〜〜、と思ってるのだけれど、カウンセリングもある程度は確かなこともあると思う。
というか、かなり確かだ。
悩みの相談を我々が受けることがあるが、注意しなけらばならないのは、我々は精神論で語ってしまう所がある、ということだ。
だから、檀家さんの悩みの相談をどう受けるか、というような講習会があったりするが、まず疑問を呈したい。
それは、カウンセリングの勉強をした者がやるべきで、素人がやってはイケナイことだと思うのだ。
ましてや、先述のような理由で、ボーズはやらない方が良い、と思っている。
ワタシなど、ゼッタイに向いていない、ということだ。

「孤独だ」「自分は独りだ」と夜中にTweetする人は、私の感覚では、そういうことはやらない方が良いのではないか?と思う。
「孤独だ」「自分は独りだ」とSNSに書き込みをするのは「私を見て」という希求なのだろうか、と私は感じる。
SNSが無かったら、気持ちの吐き出し口が無いし、また、人とのつながりを感じる事が無くて、より辛い気持ちになってしまう、ということでもあるのだろう。
しかし・・・本当に、Twitterがそういう良さをもっているのだろうか?

私は、夜中にそんな書き込みをしたら、自分のマイナスになってる心に、重ね書きをすることになるのではないか?と思ってしまうのだけれど・・・
「死に損なった」だの「自分は鬱です」だのと書き込むのは「自分を見て欲しい」あるいは「誰かと繋がりたい」「繋がっていることを確認したい」という気持ちもあるのだろうか、と思うが、そう書くことで、負の気持ちをドンドン重ね書きをして、より強くそう思い込むことになるのではないだろうか?・・・と、その危険性を感じるのだ。
実際に鬱になってしまった人の心の状態は分からない。
分からないのに書くな、ということかも知れないが・・・
斯様な夜中の書き込みに良いベクトルは感じない。
ソレによって、気持ちの発露となることが、良い方向で無くても、悪い方向にゆくことを留める働きがあるのだろうか?

鬱になったという知人がFacebookに書き込んでいるが、Facebookだと「限られた友達」になるから、気持ちの書き込みには良いのだろうと思う。
Twitterと比べれば。
その方は、写真を作るという創造と、それを誰かに見てもらえるだろうということに心の安寧を保っている感じがする。
Twitterはダメですよ。雑多すぎる。
「友達の助言」でも多種多様。
私など、カウンセラーの勉強などしていない者が書き込むべきではないのだろうと思う。
Twitterでは、自分の心を危険に晒すようなももではないうか?と思える。
そう思って、また2週間から1ヶ月くらい遠ざかろうと思っている。
情報が欲しいので、見るが、書き込むことはゼッタイにやらない。
これを繰り返すと、人のつぶやきに反応する気持ちを抑えられる。
アソコに書き込む人は、多くが自分の正しさを信じ込んでいるから、意見を戦わせるのは愚かなことだと思っている。
自分自身、かなり動揺することがある。
以前、目眩と耳鳴りを起こしたのは、精神的に不安定になったからだった。
その一因がTwitterにもあった。
以来、こんな下らんモノに惑わせれるのはバカバカしい、という気持ちを貫こうと思っているのだが・・・
時々魔が差して返信をして、後悔することがある。
修行が足りん!・・ということだ。

Twitterにも、心の修行が必要だ。
生半可な気持ちだと潰される。
それは、実に、何ともバカバカしいことだ。
だれだか分からない人が、それぞれのペースで、解釈で、気持ちで、まったく以て勝手なことを書いている。
それがTwitterだ。
そんな所に安住の地は無い。
苦しいなら、そこから出るべきだと思う。Twitterに救いは無い、という気持ちで。

苦しいなら、カウンセリングを受けるべき。
ある程度の解決にはなるはずだ。
Twitterの連中は、そういう勉強などしていない者が勝手に書いているのだ。
無責任なものなのだ。
鬱だという人に、勝手な解釈で書くことはいけないこと。
私も書き込んでしまったことを反省している。
申し訳ないことでした。

今は、とにかく葬儀が連続していて、色んな亡くなり方をした方の、家族と話している。
そして、葬儀の悲しみ。
「死ぬのは平気だ」などと言われると、そういう人のことが、想像するその思いが、対極として浮かんでくる。
若くして亡くなった中学の同級生や友人の顔が浮かんでくる。
自殺に至る人は、とにかく孤独になるのだろうと思う。
気持ちがそういう方向に行ってしまうのだろう。
よく、死に至るまで悩まずに、何でも相談してくれれば良かった・・・と思ったりするわけだけれど、おそらく、先に孤独になってしまうのだから、相談すべき他者が見えなくなってしまっているので、相談などとことは思いもしないことなんだろうと思う。
回りを否定し、自分を否定してしまう。
故に、自分の命を絶つことになってしまうのだろうか?

ワタシも、ひどく落ち込んだ時があって、東京の雑踏の中で、どうしようもない孤独感というものに襲われた事がある。
以前から高所恐怖症だけれど、それ以来「自分は飛び降りることができちゃうんじゃないか?」という恐怖が加わったことで、高所に、より強い恐怖を感じるようになった。
ウォーキングをしていても、鬼怒川に架かる橋の高さがものすごく恐いと感じる時がある。
「恐い」と思いながら、その気持ちに打ち勝とうと、無理矢理渡ったこともあった。

「死に損なった」だの「自分は鬱です」だの「死ぬのは恐くない」などと書き込むのは、やはり、負の気持ちの気持ちの重ね書き。
焼き付ける作業に思える。
言霊、である。
書くことで、言葉にすることで、それは現実となる。
言葉にすることで、確定する。

やはり、夜中のTwitterは、よろしくない。
そこには・・・
救いを求めようとしたって、無いよ。
友達がいるわけでもないよ。
本当の優しさがあるわけでもないし、本当の心があるわけでもない。
書き込む言葉は、現実となる。
それは、自分を確定することだし、苦しめることだと思うのだ。





ニコンD7500+シグマ150-600mm Contemporary
夕陽の完全逆光。
ギリギリのアングルでフレアを取り込んでみる。
これに耐えるシグマ、良いレンズだなぁ〜。
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