「最澄と天台宗のすべて」展

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11月19日、講習会に行くついでに東博の「最澄と天台宗のすべて」展へ。

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さて・・・
ここに「天台宗のすべて」が展示されていたかは疑問が残る。
「これが天台」とは言えない。
なんか消化不良な感じがする・・・というのが、感想。

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もっとも、比叡山は信長の焼き討ちで全山焼き尽くされたですからね〜〜。
仏像も経典も焼かれたというから・・・開闢からのものが無い、ということでしょか?
展示も「最澄さん以後」が多いように思う。
タイトルは「最澄」と「天台宗のすべて」と分けて見れば良いのか・・・
そうすると、余計に物足りない感じというか、何か「外している」という感じがしてしまう。

そうか、声明に関する展示もなかったか。

全山灰燼に帰したと言っても、最澄さん自身が彫ったという御本尊様はさすがにナントカして残した、ということだろうか?
秘仏というのは、若しかしたら、後年造り直したから、ということではない?

あ、そう、こういう話を聞くと思うんだけど、空海さんにしても、最澄さんにしても、仏像を彫ったという事になっておるですが、そういう才能もあったのか?という疑問を持つのですが・・・いくらなんでも、そこまでの才能があったかどうか・・・?

信長の焼き討ちはそれほどのものではなかった、という説もある。
しかし、かなり焼けてしまったのだろう。

比叡山は僧兵というのが狼藉三昧だったし、権力も財力もあったということで、焼き討ちになったという。

ちなみに、ウチら新義真言宗の大元である根来寺も、やはり僧兵を持っていてその力が強くなりすぎて、秀吉による焼き討ちに遭ってる。
「焼き討ち仲間」じゃよ〜。

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まあ、こういうものは、これまではだいたいが「撮影禁止」だったけれど、こういう「撮影可」というスペースを設けるのが今のトレンドらしい。
これをネットで発信して貰うことが宣伝になるということ、という思想の転換があった。

それに、いつでもどこでも何でも撮る撮るスマホの民に「撮影禁止」は厳しい行かも知れないから、こういうトコで緩和してあげることも必要、ということもあろうか。
でもね、なんかね・・・
「おらおら、撮りたいんだろ〜? だったら、ほら、ココだけ撮らせてやるよ〜、おらオラ〜(^o^)」という感じがして嫌だ。
でも、まあ、みんな撮ってるし、一応撮っておく。

とはいえ、とても暗くて、スマホにとっては撮影条件はナカナカ厳しいよ〜。

スマホのライトを「ダメ」と係員さんは言ってるけれど、仏像等に当たってる光の方が遙かに強くて、スマホの補助光禁止が文化財保護という理由では、無意味だとおもうけど、ね・・・
(^_-)

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司馬遼太郎さんによれば、最澄さんはその名の通り、澄んだ方で、純粋に仏法を求めたという感じで、空海さんは「山師」のようなものだという。

私が真言だから、というワケではないが、私にはそうは思えない。

最澄さんは、平安遷都の10年くらい前に比叡山に籠もっている。
そこへ桓武天皇が遷都してきた。
最澄さんは、都から離れて山に籠もって修行をしようと思ったトコロに、都の方が寄ってきたワケだ。

そして、おそらく桓武天皇は、比叡山に籠もる最澄さんの噂を聞き、興味を持ったんだろうと思う。
偶然だが、比叡山は都の鬼門にあたることも幸いだった。
もともとが、災い転じる遷都である。
鬼門封じは願ったり叶ったりだったろう。
(最澄さんは、都が京都に移ることを知っていて先回りをした、ということはさすがに無いか?)

最澄さんは、延暦10年(791年)12月28日に修行入位という僧位を授かる。
これは遷都前だ。
そこから、最澄さんは、なぜ、山に籠もって1人、修行をしようと思ったのか?
最澄さんが目指すのは何だったのか?
ここの部分に、後世の余計な脚色があって、良く分からない。

最澄さんは、それ以前、延暦4年(785年)4月6日に東大寺戒壇院で具足戒を受けて比丘となっている。
これは「官僧」になるということだろう。
その後、まもなく比叡山に籠もったということだ。
それは菩薩にならんとしたのか?

延暦16年(797年)に最澄は比叡山に一切経を揃える写経事業を発願する。
弟子たちに写経をさせたほか、助力を請うため南都諸寺に願文を送っている。

さらに延暦20年(801年)11月24日には南都各宗の高僧に呼びかけ法華十講を催しているというから、南都との関わりもあったようだ。

空海さんが、役人になる勉強をやめて、おそらく山岳修行をしたのとは違うということだ。
最澄さんが目指したのは単なる修行ではないように思える。
比叡山を修行の地というより、しっかりした寺にしたかった、という感じがする。

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遣唐使は、始め、唐の天台山への還学生と留学生を各一名派遣するという予定だった。

文章生(もんじょしょう)として朝廷に仕えていた和気弘世と言う人が、氏寺の高尾山寺で催した天台法門の講会に、最澄も招かれ講師を務めたという。
この法会の事を聞いた桓武天皇が天台一乗興隆を発願し、同年9月7日に弘世を詔問し、弘世は最澄に相談したとされる。
法華の論者は他にもいた、ということだろう。
その中から最澄さんが選ばれたというニュアンス。

当時、仏教宗派は、当然ながら奈良が中心だった。南都六宗に限られていた。
特に法相宗と三論宗に多くの学生(がくしょう)が集まり、延暦21年正月(802年)の太政官符に「三論、法相、彼此角争」とあるように両宗が衝突していた。こうした抗争を収束させたい朝廷は新しい仏教界の秩序作りを目指す仏教政策を取る事となり、結果として天台宗の開宗が後押しされたと考えられる。(Wiki)

都を移すにあたり、仏教も新しいものを、という気持ちが桓武天皇にはあったものと思える。
権力と威厳を持った(持ちすぎた?)奈良仏教は、平城京と共に捨て置かれた、という感じがする。

『叡山大師伝』によれば、桓武天皇の詔問を受けた弘世は最澄に相談し、唐の天台山への還学生と留学生各1名を派遣の必要性を訴える上表文を記す。
(前略)天台独り、論宗を斥けて特に経宗に立つ。論は此れ経の末、経は此れ論の本なり。(中略)
伏して願わくは我が聖皇の御代に円宗の妙義を唐朝に学ばしめ、法華の宝車を日本に運らしめん。(後略)
— 和気弘世、『上表文』

論宗とは『中論』に基づく三論宗と『成唯識論』に基づく法相宗を指し、天台宗は釈尊の説いた経に基づく経宗であると主張している。この上表により円基と妙澄の唐への派遣が決まったものの、9月12日になると天皇は最澄本人が入唐するよう勅した。
翌日最澄は「天朝の命に答えん」と返答し還学生となり、さらに10月20日に義真を訳語僧として同行することを願い出て許されている。
この際に入唐費用として金銀数百両が与えられたが、遣唐大使が200両、副使が150両であった事と比べ非常に大きな額であったことが分かる。

(Wiki先生)

おそらく、桓武天皇は、最澄に全てを託し「シン・都」での「シン・仏教」を興隆するため、最澄に権威を与える必要があったのだろう。
そのためには、とにかくまず最澄が「唐に行け」と。

「唐に行って勉強してきた」ということこそが、一番の力となる。
箔が付くということだ。
そのためには最澄が行くしかなかったのだ。
この時の遣唐船は、最澄さんのために出されたと言っても過言では無いものだった。

ちなみに、そこに便乗したのが空海さんだったワケだ。

今回の展示で、最澄さんと、後の円仁さん円珍さんの苦難の旅の軌跡が記されていたが、この2人と違い、最澄さんは中国の海岸縁をチョコッと回っただけで、すぐに帰還している。
元々が、すぐに帰る遣唐使だったのだが、やはりこれは「権威付けのため」という感じがする。

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ところが・・・・

最澄さんが日本に帰ったときに歓迎されたのは、最澄さんが法華経の勉強のついでにチョロッと学んだ密教だった。

その時、桓武天皇が病に伏せていたらしく、密教の灌頂や加持祈祷が繰り返し行われたようだ。
最澄さんにとっては勝手が違った、意外な展開、という感じだったろう。
「えっ?、こっち?!」・・・みたいな。

自分を支持しバックアップをしてくれた桓武天皇は病に倒れ、そのために祈祷をする。
行く前と帰ってきた時には、仏教に期待されるものが変わってしまっていたのだ。

奈良の仏教は大学のようなもので、経典を研究する機関だった。
南都六宗は、経典別の専門大学という感じ。
法華経もどちらかと言えば、講じるもので、今でも、法華八講など「論議するだけ」のものだ。
これは奈良の延長でしかない。
奈良の大学に、京都の大学がひとつ加わったようなもの。
実際、そういう扱いだったと思う。

しかし、この時、仏教に求められたのは、実際に病気を治す医大のようなものだった。
この平安時代から、日蓮上人の時代辺りまで、仏教は加持祈祷を主にする、というものになる。

『叡山大師伝』には・・・
「真言の秘教等は未だ此の土に伝るを得ず。しかるに最澄はこの道を得、まことに国師たり」と、桓武天皇の喜びを記している。

天皇は、密教を持ち帰ったことを喜んでいた。
最澄さんにとっては「話、違うやん〜」あるいは「変わってるやん〜〜」ということだったのではないか?

官符には年分度者(1年に僧侶になれる数)の学業や任用など具体的な規定を含んでいることが特徴で、天台法華宗には『大日経』を読ませる遮那業(密教)と『摩訶止観』を読ませる止観業(天台)、各一名が割り当てられた。

この遮那業(密教)というのが、最澄さんの予定に無かったことだった。

最澄さんが唐から戻った翌年、空海さんが戻る。
空海が持ち帰ったものを記した『御請来目録』を見て、最澄さんは驚く。
「密教ばっかりやん〜〜〜(^^)」

20年唐にいなければならない遣唐使だったのに、すぐに帰って来てしまったために、九州に留め置かれていた空海さんの都入りを推したのは最澄さんだった。
ついでにチョロッと学んだ密教に多大な期待を掛けられたものの、キチンと密教の全てを学んでないことは分かっていたから、空海さんの持ち帰ったものは願ったり叶ったりだった。

そこで、最澄さんは空海さんに頭を下げ、密教を学ぼうとする。
これは、大学の学長が入学したばかりの一学生に頭を下げるようなものだった。

これを「偉い!」と見る向きが多い。司馬遼太郎さん然り。

しかし、ここには最澄さんの保身があったと思う。
最澄さんは、とにかく密教を学ぶ必要があった。
必要に迫られていたのだ。

そこで、空海さんの元へ弟子を送り写経を進める。
自身も借経するが、ここで『理趣釈経』の借用の一件で、ケンカ別れ、ということになっているが、そういう感じではないと思う。

最澄さんは、自らも空海さんより密教の灌頂を受けた。
空海さんが行った灌頂の一番目は最澄さんである。
これは即ち「最澄は空海の弟子となった」ことを意味する。

天台宗では最澄さんを「福聚金剛」という金剛名で呼ぶが、これは、神護寺で空海さんの灌頂を受けた時に投華得佛(曼陀羅の上に華を落として、落ちた所の佛様を縁を結びそれが金剛名になる)で縁を結んだ(華が落ちたところの佛様)、宝幢如来の金剛名であるから、最澄さんも天台宗も、このときの灌頂を大切にしているということだ。
(天台宗で現在、どういう認識か知らないが・・・)

天台密教は、最澄さんの遺志によって、後の円仁さん・円珍さんが唐に入って密教を学び直し、改めて、天台密教として確立したのでした。

最澄さんは、上手く行かないことを何度か繰り返している。

1.まず、1人で山に籠もったら、都が後から来たこと。
2.唐から帰ったら、自分が勉強したことより密教が求められるという、世間のニーズが変わってしまっていた。
3.一緒に行った空海さんが完璧な密教を持ち帰っていたこと。
4.空海さんの元に送った弟子が寝取られた・・・いや、寝返ったこと。
5.大乗仏教なんだから大乗戒の受戒だけでいいんじゃね?・・・・という間違い。

なんか、同情したくなるほど、なんか残念なことが重なってる方、という感じがしちゃうのですよ。

(以上、個人的な感想です)

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この後の展示予定。これは楽しみ。

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時間が無くて、これは行けなかった。




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