日蓮上人について考える

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第44回、智山勧学会主催「智山談話会」
智山勧学会は、ここのところ「鎌倉仏教〜密教の視点から〜」という基調テーマで各方面より講演をいただいている。
今回は「中世日本の密教と日蓮」というお話。
現・創価大学大学院文学研究科教授、文学博士・前川建一先生。

結論から言うと「中世日本の密教」という部分はあまり語られず、主に、日蓮上人がどのように他を批難してきたか、というお話だったと思う。

ただ、前川建一先生からご提示いただいたレジュメには、日蓮上人が書かれた批判が集められ、その全体像が良く分かるものだった。
現在も、日蓮宗系の日蓮正宗や、創価学会が行なう「折伏」という他宗批判をして自宗に導く行為の始まりは、日蓮上人に端を発している。

有名な四箇格言・・・すなわち真言亡国(しんごんぼうこく)、禅天魔(ぜんてんま)、念仏無間(ねんぶつむけん)、律国賊(りつこくぞく)・・・というヤツですな (^o^)

『守護国家論』(1259?)には・・・
中昔、邪智の上人有って末代の愚人の為に、一切の宗義を破して、選択集一巻を造る、名を鸞・綽・導の三師に仮りて、一代を二門に分かち実経を録して権経に入れ法華真言の直道を閉じて、浄土三部の隘路を開く・・・と書いている。

これは法然上人に対するもの。酷い言い方でありますな。
その後の日蓮宗の在り方に通づるものとして、仏教に求めるのは強い現是利益というものだったろうと思え、それが、ここいらへんから見えている感じだ。

つまり・・・
「ひどい現世はあきらめましょう。浄土への往生が補償されているのだから」というのが浄土宗の教え。
仏教の力とは、現世での救いが無ければ何の意味もない。
それは、悪い現実を変える力であるはずだし、あるべきだ、というものだったろうと私は思う。
だから、浄土宗の教えには無力感しか見えず、これは真っ先に否定されるものだった、ということだろう。

日蓮上人の初めの頃の記述には「法華真言」という言葉が出てくる。
これが「法華と真言」なのか、それとも「法華真言」とひとつのものなのか?

天台宗の円仁さんの帰朝が承和14年(847年)であり、日蓮上人の出家が1237年、天台宗の寺だったというから、おそらく、天台宗には天台密教と言えるものが整備されて久しく、法華真言というのは、おそらく当時の天台宗のことだろうと思える。

Wikiには次のような記述がある。
少年時代の日蓮は、自身の誕生の前年に起きた承久の乱で真言密教の祈禱を用いた朝廷方が鎌倉幕府方に敗れたのはなぜか、との問題意識をもっていた。
また、仏教の内部になぜ多くの宗派が分立し、争っているのか、との疑問もあった。
清澄寺にはこれらの疑問に答えを示せる学匠がいなかったので、日蓮は既存の宗派の教義に盲従せず、自身で経典に取り組み、経典を基準にして主体的な思索を続けた。


こういう記述も、日蓮宗の側の解釈が入っていると思えるから、一概に信用できるものではないが、この記述は何となく納得できる。

後々「祈祷が効かなかった」ということは、日蓮上人が繰り返し述べる論点の重要な項目になる。
そして「既存の宗派の教義に盲従せず、自身で経典に取り組み、経典を基準にして主体的な思索を続けた」というのも、日蓮上人の宗派・教義・経典の解釈が独特で、ひとつひとつをきちんと勉強したということが感じられないという点に繋がる。
日蓮上人は、かなり強引というか、勝手な解釈をしていることが感じられる。

確か、比叡山では、日蓮上人も「比叡山で勉強した僧侶」として、看板を掲げて、喧伝している。
日本の仏教の各宗派の祖師は、法然、親鸞、日蓮、道元などみな比叡山で修行した、というようなことを看板に描いている。
当時は、片っ端から糾弾・弾圧、攻撃を加えていたのに、勝手なモンだ・・・と思っていたが、これもどうも違うよう。
講師が作られた年表に比叡山に登ったというのがないので、質問したが、良くは分からないよう。
ただ、各宗派の教えを知る為に遊学した、ということのよう。
これも、どこまでホントか分からない。

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建長4年(1252年)、日蓮上人は清澄寺に戻って、日蓮は念仏と禅宗が妙法蓮華経(法華経)を誹謗する謗法を犯していると主張し、南無妙法蓮華経の題目を唱える唱題行を説いたという。
「朝題目に夕念仏」という。
天台宗で、朝「法華懺法」を行ない、夕に念仏を唱える「例時作法」を修する。
「定見のない」ことのたとえとして、良くない意味にも使われるが・・・(^^)
あっちもこっちも、ということではなくて、「あっち」と「こっち」は、後から分かれた物で、元はひとつだったということ。
その天台のやり方を否定して、南無妙法蓮華経の唱題のみを行う、ということにした。
ここで「日蓮」を名乗り、立教開宗ということになる。

正嘉元年(1257年)8月、鎌倉に大地震があり、ほとんどの民家が倒壊するなど、大きな被害が出た。
『立正安国論』を著し、鎌倉幕府第5代執権の北条時頼に提出。

大規模な災害や飢饉が生じている原因は、法然(浄土宗の開祖)の教えが流行し、為政者を含めて人々が正法に違背して悪法に帰依しているところにある。
その故に国土を守る諸天善神が国を去ってその代わりに悪鬼が国に入っているために災難が生ずる。
そこで日蓮は、災難を止めるためには為政者が悪法の帰依を停止して正法に帰依することが必要であると主張する。
さらに日蓮は、このまま悪法への帰依を続けたならば、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)が生ずると予言し、警告した。

(Wiki)

日蓮上人は、法然の専修念仏を強く批判する。
それは、貴族階級から民衆レベルまで広がりつつあった専修念仏を抑止することが自身の仏法弘通にとって不可欠と判断されたためである。
この時期に作成された「守護国家論」「念仏者追放宣旨事」などでも徹底した念仏批判が展開されているが、これは相手にされなかったようだ。
故に、日蓮上人の思いはエスカレートしたのだろう。

念仏勢力の激しい反発を招き、文応元年(1260年)8月27日の夜、松葉ヶ谷の草庵が多数の念仏者によって襲撃されることとなる。
これを日蓮信者は、松葉ヶ谷の法難として、ヒロイズムを以て語る。
悲劇のヒーローだ。悲劇がヒーローを強く見せる要素となるわけだ。
さすがに鎌倉にはいられず、千葉に逃げる。(←と言ったら叱られるか)

弘長元年(1261年)5月12日、鎌倉に戻った日蓮は幕府によって拘束され、伊豆の伊東に流罪になる。
日蓮は伊豆流罪中に「四恩抄」を著し、松葉ヶ谷法難・伊豆流罪などの法難が法華経の行者であることの証明であると位置づけ(Wiki)・・・って、おいおい、自分で言ってるんかい〜〜?!

その後、詳しくは書かないが「小松原の法難」というのもあり、攻撃する者は攻撃されることもよくあるワケだ。

日蓮宗にとっては大きなポイントである「蒙古襲来」あたりから、日蓮さんは真言宗への批判を加える。
蒙古の襲来に対して、仏教はそれを調伏できなかったではないか!・・・という論点になる。
始め、天台密教は批判しなかったが、次第に天台をも批判するようになる。

日蓮は、蒙古国書の到来を外国侵略を予言した「立正安国論」の正しさを証明する事実であると受け止め、執権・北条時宗、侍所所司・平頼綱らの幕府要人のほか、極楽寺良観、建長寺道隆ら鎌倉仏教界の主要僧侶に対して書簡を発し、諸宗との公場対決を要求した(十一通御書)。十一通御書においては念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊という「四箇の格言」を見ることができる。
しかし幕府は日蓮の主張を無視し、むしろ日蓮教団を幕府に従わない危険集団と見なして教団に対する弾圧を検討した。


つまり、日蓮上人は、悉く無視されるわけだ。
そうなれば、反発心は余計に強くなる道理。
仰ることが段々大きくなる、という感じがする。

「龍の口の法難」というものもある。
文永8年(1271年)6月、日蓮は、当時、関東における真言律宗教団の中心者で、非人の労働力を組織化することで道路や橋の建設、港湾の維持管理などの事業を行っていた極楽寺良観(忍性)が、旱魃に際して幕府に祈雨の祈願を要請されたことを知り、「7日の間に雨が降るならば日蓮が良観の弟子となるが、降らないならば良観が妙法蓮華経(法華経)に帰依せよ」と降雨祈願の勝負を申し出たが、良観はこれに応じなかった。
この結果の具体的なことは、日蓮宗の側の記述など不確かなのでこれ以上は書かない。

9月10日、日蓮は幕府に召喚され尋問を受けた。
日蓮上人は斬首されることとなり、同日夜半、日蓮を龍の口の刑場へと連行される。
日蓮上人が斬首の場に臨み、刑が執行されようとする時、江の島の方角から強烈な光り物が現れ、太刀を取る武士の目がくらむほどの事態になって刑の執行は中止された・・・という、こういうのはアヤシイ、というか、それは無いだろう。
では何故斬首がやめられたのか?・・・それは客観的には判らない。

結果、斬首は逃れ、佐渡に流罪となる。
ここから、批判の対象は、自分が門弟となった天台宗にも及ぶようになり、弘法・慈覚・智証の「三大師」への強い批判になる。

この日蓮上人の変節を日蓮宗ではどう捉えるのか?という質問をさせていただいたが、良くはわからす、ただ、このサドル罪・・・いや、佐渡流罪がターニングポイントのように捉えている、ということのよう。
ここで日蓮上人の思いは固まった、ということか。

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今回ご提示いただいたレジュメにある『捨邪帰正勧発抄』には・・・

正法をまぼらざれば、悪人、国に充満するゆへと見たり。彼悪人と者、日蓮体の輩をゆるしをくにあたれり。(略)
日蓮、蒙古の悪賊、本朝へむかふ事、真言の恠(怪)異なるよし、此を記せり。是則前後不覚の至也。彼賊徒の事、記録の状の如くは、四千余艘の船、一夜にくだけ、十七万人のつあもの、万里の波に沈む。此併ら東寺、天台の真言の行者、護摩のけぶり、雲に遍じ、南北二京の顕密の碩徳、法音響、雷をなせり。依之、仏神、此法味に威力をまし、冥衆、此加持に効験を施す故也。(略)日蓮が悪見、是を以て知るべし。

・・・とある。

鎌倉においては、真言律宗の叡尊、忍性らが鎌倉に赴いて、幕府のために祈祷などをしている。
そのお陰だろう、と、日蓮上人の仰ることなど一蹴!・・という感じだ。

例えば、日蓮上人は、過去の人ばかりでなく、同時代を生きる人をも批難している。
その批難されている人の弁(反論)がほとんど、というか、皆無とも言える。
批難し返す、論破する、そういう記述が無いのは何故か、と思っていたが、この『捨邪帰正勧発抄』を見ると判る。

相手にされてなかったのだ。・・・と思う。

鎌倉の大仏様は阿弥陀様だ。
この頃は浄土信仰が盛んだったと思える。
それを一方的に非難し、今の世の中が良くないのは浄土宗を信じているからだ、といきなり言われても、理解すらできないだろう。
「何を言ってるんだ、こいつは」・・・というくらい。タダの戯け者、としか言い様がない。
そういう存在だったのだと思える。
だから、外から見た日蓮上人に関する記述が無いのだと思える。

大体、自分の力に関しては「自分で言ってる」というもの。
自分の著書に自分で書いてる。
そして、多くは、後々の弟子・信者が話を大きく作っていったんだと思う。

以前参加した日蓮宗の勉強会では、現在の日蓮宗では、日蓮上人の書かれた物が本物かそうでないか、という論争をして、本物となれば、それが手紙のようなものでも尊重する、という傾向があることが判った。
だから、日蓮上人に関しては、ご自身が書かれたものを尊重する、つまり、それを信じ切る、それが、信心ということ。
そこに日蓮上人の力が書かれていれば、それを信じる。
そこから、上人の伝承ができる。
そこには、上人の力の凄さが描かれる。
そうして、日蓮宗は大きくなったんだと思える。

真言だって、空海さんの絵巻には超人的な記述が多い。
空海さんは特に多いと言える。
これも、滅後だいぶ経ってから書かれたものだ。

信仰が下火になるとか、他の勢力が台頭してきたとかいう時に我らがお祖師様がどれだけ大変な方か!というアピールをするというようなものだったろうと思う。
宗教性というものが、神秘性を伴ない、不可思議さを強調し、超人化するのは、お釈迦様然り、でもある。

それが宗教、ということであろうかと思う。

恐らく、日蓮宗という宗派は、日蓮上人の力を称え上げ、後の人が作り上げた所が大きいように思えるのだ。
日蓮上人在世の時には、伝記に言われるほど、或いは教科書にあるようなムーブメントはなかったのではないだろうか?

浄土宗は鎌倉幕府の頃にはかなり広まっていたし、禅宗も武士の世になって支持されたと思える。
しかし、日蓮上人は、それほどでは無かったという感じがする。
国がダメになるというような主張をしているから、一般民衆への訴求力は疑わしいし、肝心の政治の側にも相手にされなかった。

おそらく、後の人が日蓮上人譚を語ることで広めたという要素が強い、ということを、今回の講義で再認識した。

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今の日蓮宗を外から見ると、上人の著作に拘るあまり、閉鎖性から、閉塞性、という状況になっているのでは?・・・と思えた。
外からみていると、浄土真宗なども、同様な感じを受ける。

これは、日蓮宗関係の方が見れば、トンデモナイ意見だと思うだろうが、一個人の考えとしてお許し願いたい。

ま、こういう見方もできますよ、ということだ。

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