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zoom RSS 【真田丸紀行】・・・九度山

<<   作成日時 : 2017/07/20 00:00   >>

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「九度山」と言えば、私らにとっては「高野山」との関わりの方が大きく、真田幸村以前から存じ上げておる場所でござる。

高野山を開かれた我が宗の開祖・弘法大師空海さんの母が暮らしていたという慈尊院がある。
高野山は女人禁制のため、母君は高野山へは参れないので、空海さんの方で、月に9度母に会いに来ていたことから「九度山」という地名が付いたんだそうな〜。

九度山は、南海電車・高野線で、高野山へ向かう手前にある。

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九度山へは、2度行っている。
いずれも高野山への途中に寄った。
この日は、デジカメのデータを見ると2012年2月16日。
・・・そうか、常楽会に行ったついでに寄ったか。
14〜15日に徹夜して、ヘロヘロになって難波のホテルに入って、翌日、行ってみたんだった。
結構大がかりな機材を持って行ったのだけれど、この日は、コインロッカーに入れて、コンデジ一台。
・・・さて、オリンパスというのは分かったものの、機種が思い出せない。

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歴女だった次女にお土産を買って行こうと思ったのだった。
同時に「いいな〜〜」と言わせたかったのか?

この時は、「真田丸」の「さ」の字も無く、ゲームの「戦国BASARA」とかで盛り上がっていたんだったか・・・。

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ゲームの世界からブームになっていたけれど「大河ドラマ」というメジャーなブームが来た後、変わっているのか・・・今から見返すと感慨深いし、今一度行ってみたいと思う。

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おいおい・・・・。この日、定休日のお店が多かった。
次女と行った上田城は、一回目は展示室が休館日で、2回目は、展示時間終了だった。
真田とは、縁が無いと思ったのだった。

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「真田の抜け穴」と呼ばれていた「真田古墳」。
「真田古墳」という命名もいかがなものか?・・だけれど・・・

そういえば、大阪、いや、大坂の三光神社にも「真田の抜け穴」がある。
忍者との絡みで物語が作られているので、致し方ないけれど・・・
あ、上田城にもあった・・か?

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九度山から大坂冬の陣への出陣の際、幸村はこの抜け穴を通って大坂へ出陣したと言われております。
大坂城への入城に際し、九度山の脱出方法、大坂城までのルートは諸説ある。
そのひとつとして真田庵(屋敷跡)にある井戸から続いていたこの抜け穴を通り、監視の目をくぐりぬけて大坂城へ入城したという伝説が、まことしやかに語り継がれておるわけです。
大河「真田丸」では、九度山の住人を申し合わせ、ウソの宴で番人を酔わせ、ミュージカルの如き手法で逃げるけれど、実際、どうやって逃げ出したのだろうか?

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・・・真田庵・・・

寛保元年(1741年)に大安上人が、真田昌幸の庵跡と伝承のあるこの地に、地蔵菩薩を安置した一堂を創建したのが始まりである。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れた真田昌幸・信繁父子は、女人禁制の高野山(蓮華定院)に配流の身となった。しかし、妻を連れていたために九度山に移され蟄居生活を送ったとあるが、理由には諸説ある。善名称院には、その庵の址があったと伝わるが、庵は遍照寺の近くにあったという説など、諸説がある。後世、真田親子の講談が人気となり読まれ、訪れる人も増え観光化され、別称・真田庵と呼ばれるようになり、資料館なども併設、開館された。平成28年(2016年)のNHK大河ドラマ・『真田丸』の放送に合わせ、北へ100mの地点に九度山・真田ミュージアムが開館している。

・・・以上、Wiki先生。

そうか「九度山・真田ミュージアム」なんて〜ものが出来たのか。行かねば。

敷地内には、幸村が、落ちた雷を閉じ込めて村人を救ったという言い伝えが残る「雷封じの井」なんて〜のもあったりする。
「伝説」だらけ、であ〜る。

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当然ながら、お約束の六文銭だらけ〜〜。

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「真田地主大権現」・・・
是は真田家重大の宝物である毘沙門天を真田家三代んも御霊を合祀したものであります。
昔から、福徳を授け給う運の神として遠近を問はず多数の信者が訪れ、何事によらず一心に祈願すると霊験あらたかであると伝えられております

・・・という看板があった。

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伝・真田昌幸の墓碑
伝・真田家臣一族の墓碑
供養塔・・・などがある。

また「真田宝物資料館」がある。

真田昌幸・信繁の九度山での生活をテーマに、信繁が愛用したと伝えられる槍先や鎧兜などの武具や書状、肖像画などが数多く展示されている。また、当時の真田家の生活を支えた真田紐や高野紙製造用具なども展示されている・・・らしい。
このとき、閉まっていて見られなかった・・・(T_T)

「高野山・蓮華定院」の「宿坊縁起」には、次のようにある。

鎌倉時代の始め行勝上人により創建された。
室町時代の終り大永2年長野県小県・佐久地方の豪族と宿坊の契約が結ばれ、海野氏より出た真田昌幸は関ヶ原の戦に上田城に籠城し徳川秀忠の西下を妨げた。
秀忠軍にあった長子真田信幸の助命嘆願により、次子幸村と共に昌幸は高野山に蟄居を命ぜられ、当院に仮寓し九度山に妻子を置いた。
幸村は大阪夏の陣に戦死したが、長野市松代に移った真田家の高野山における菩薩寺として保護された。

ワタシが聞いたのは・・・高野山に入ったものの、「寒くて敵わん」といって九度山に降りた・・・とか(^^)

「諸説あり」は、メンドクサイ・・・(^^;)

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この時には、まだ、色褪せた「真田太平記」だった・・・。

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大河ドラマで「真田幸村」をやって欲しい、という署名のようなものがあった。
そんな時だった。

願いかなって・・・「真田丸」!!

当然、ワタシは「次女」の名前を書いてきたのだった。




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