「お寺のこれから」・・・について考える(その2)

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智山総合研修会に呼ばれた彼岸寺の松本紹圭氏の話は、全国統計を出して、論理的な考察があるのかと思いきや、観念的だったり、単に自分が適当に思うことだったり、案外、安直なステレオタイプだったりして・・・支離滅裂としか言いようがない感じでした。

テーマを意識することなく、自分のフィールドだけで話しているという感じ。
そういう風にしかできない、という感じもします。

だいたい、統計といったって、それだけで経営ができるわけはなく、その方向性を求めるようなことはできても、具体的な方法に関しても「一助」にしかならないものだと思います。
統計などの数値は、ことを考えたり、ことを起こすようなときに説得力を増すだけの、空虚な魔法でしかない、というのがホントの所だと思います。

マーケティングとは、相手にとって価値ある提供物を創造・伝達・配達・交換するための活動・・・である、ということですが、ここで、精一杯の宗教的知識を出したのか、お釈迦様の「待機説法」という話を持ち出します。
・・・ホントに精一杯という印象でした(^^)

このマーケティングの定義も待機説法も、今更お前に言われるようなことじゃね~よ!・・・ですわな。

また「誰に伝えるのか?」ということで「セグメンテーション(顧客を区分けする)」という理論を持ち出します。
即ち・・・
「その人がお寺に求めるもの」の似通ったグループ(セグメント)を仕分ける作業→性別、年齢、世代、年収、職業、家族構成、地域、趣味なそ、切り口は無限大

・・・と言っていますが、これは、まったくと言って良いくらい、不要。

マーケティングの理想は販売を不要にすること(P.F.ドラッカー)
・・・相手にとって本当に価値あるものを提供すれば、客寄せや売り込みなどしなくても、自然とそれを求める人々の行列ができるはず


・・・という提言もありましたが、こっちの方が重要で、これがあれば、先のセグメンテーションなんてものは不要だということです。

我々は、とにかく、僧侶としての勤めを果たす、ということに尽きると思います。

「葬式仏教と揶揄される・・・」というような言い方がされますが、日本においては、葬式仏教こそが大切なのであって「揶揄している・されている」と思っている人たちは、本当のところが分かってないんだと思います。
仏教に関する、テキトーな知識で「仏教というのは葬式じゃないだろ」と言っているだけの人が多いように思います。

確かに、元々の仏教は、葬式をメインにするようなものではありませんが、そこの知識だけで安易に言ってもらっては困ります。

日本においては、葬式こそが大切。それが全てと言っていいくらいのものなのです。そう思っています。

日本民族ほど「鎮魂」ということに思いを費やす民族はないのではないか、と思えるほどに、とにかく「慰霊」という言葉を聞きます。

本来なら「慰霊」ではないはずの「靖国神社」に行って・・・
「慰霊にきました、慰霊の気持ちで参拝して何が悪い」というようなことを言う首相など数多おりますが・・・国のために戦って国を支える人柱(=神)になるという考え方も、本来の民族性からは不自然だったのです。やっぱり「慰霊」なのです。
国が作った靖国の論理などは、戦争が終わると切り捨ててしまって、一気に「慰霊」ということになりました。
やはり、慰霊でなければイケナイのです。

日本人が一番大切に思っているのは、とにかく慰霊です。
鎮魂、つまり「霊鎮め」なのです。
亡くなった人が(=魂が)鎮まってほしい。・・・ひたすらこの一念なのだと思うのです。

神様は死のケガレを嫌うので、その部分を仏教でやろう、ということで、主に、仏教で葬儀をするようになったんだと思います。(江戸時代の寺請制度、という問題もありますが・・・)

面白いというか、不思議なのは、未だに、この「霊鎮め」の定義が定まっていないということです。

これは、色んな宗派が、それぞれに宗派の論理で色んなことを言うから、ややこしくなっている、ということなんじゃないか?と思います。

浄土宗の言う成仏、真宗の言う成仏、天台の言う成仏、真言の・・・かくの如く「成仏」ということも定まっていません。

おそらく、というか、確実に・・・

一般の人が思う「成仏」と、宗派それぞれの論理をかざす我々の(宗派の論理としての)「成仏」との間には「深ぁ~くて暗ぁ~い河ぁ~ぁ」があるんだと思うんです。

皆さんが「成仏」と言うときの、そのイメージは、紛れもなく「霊鎮め」です。
それは・・・「安らかにお休みください」という言葉に、一番良く表れていると思います。

「霊鎮め」によって、故人の魂は「あの世」にいって、そこから我々を見守っていてくださる安定した祖霊になる、というのが「霊鎮め的成仏」の概念なんだと思うのです。

逝く人は「行き先」が心配です。
それで、一番安心できる「あの世」というものが、民俗・宗教によって、それぞれ想定されます。

しかし、一方で、見送る人たちにとっては、安定した祖霊になってほしい、という気持ちになるものだと思います。

ある時代から、仏教に託されたあの世への思いは、亡くなってからの「行き先」の心配でした。
末法思想から、強まった極楽往生へ至る思いというのが、これです。

しかし、葬儀というものは、また一方で、紛れもなく、見送る人の霊鎮めの気持ちが反映しているものです。

実は、我々も、これまでずっと、このふたつの意識をハッキリ区別してはいなかったんだと思うのです。
宗派の論理すら、このことをキッチリ考えているとは思えない部分があります。

そこで「あの世観」がちぐはぐになっていると思うのです。

日本人が思い描く「霊鎮め的成仏観」といったものは、こういう宗派の論理と、皆さんの気持ちの行き違いに問題があるんだと思う訳です。

そこで「天国で見守っていてね」という概念が、一般ピープルの間から生まれて定着してしまったのだと思うのです。

一般に言われる「天国」は、宗派の論理へのアンチテーゼかも知れません。
仏教の理屈はワカラン、ということでしょう。
みんな勝手な事言ってるし・・・、というような。

さて・・・話が、逸れてしまったですが・・・

言いたいことは「葬儀の大切さ」なのです。
これをワカラン人が「葬式仏教と揶揄・・・」とか言ってるわけです。

宗教にとって一番大切な民俗・・・というか、宗教=民俗と言っても良いくらいなのに、それを全く無視し、また、学会にいる訳でもないのに「宗教学者」を標榜する島田裕巳なんて人は、ここを全く分かっていない、ということです。
民俗を全く勉強していない「宗教学者」なんて絶対あり得ないのです。

とにかく・・・葬儀こそが大切のです。

ですから、我々僧侶がするべきは、まず何よりも「葬儀をキッチリする」・・・これに尽きるわけです。

良い読経をし、良い儀式をし、良い話をする。

この努力をして・・・「なんだありゃ」と言われないような「良い葬式だった」と言われるような葬儀をすることこそが「説法」であり「布教」なのだと思うわけです。

それをキチンとやっていて「僧侶として、寺として、評価される」ことこそが大切でしょう。

当たり前と言えば、当たり前の結論ですが、これを抜いて、寺院の活性化だとか、やれマーケティングだ、寺に人を呼ぶイベントだ・・・と言ったって、なんにもなりゃしない!

むしろ、僧侶としての、寺としての評価を落とすことになりかねない、諸刃の刃の面も持っているものだ、ということくらいは、智山教化センターも理解して欲しいものです。

足下を見よ!・・・ですよ。

・・続く・・・



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この記事へのコメント

三人文殊
2014年06月22日 22:01
>我々僧侶がするべきは、まず何よりも「葬儀をキッチリする」・・・これに尽きるわけです。
>良い読経をし、良い儀式をし、良い話をする。

私もそう思います。

まず、基本はここですね。

葬式仏教ではいけないとも言いますが、やはり日本人にとっては葬式は不要にはならないと思います。
そういう意味で、檀家寺の住職たる者、葬式・法事をしっかりと勤めることが重要ですね。

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