「お寺のこれから」・・・について考える(その5)

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今、本堂のホワイトボードには、3枚のポスターが掲げてあります。

左は、新義真言3派の青年会のもの。
中央は、宗派のもの。
右は、地元の寺院のもの。

真ん中のポスターは、宗派のものですが、見た目も中身も、何だか、真宗のような感じがしちゃってイヤなのです。
別に真宗を貶めるつもりはありません。
このポスターの言わんとすることの、どこに「真言宗智山派」があるのだろうか・・・・と思うわけです。

ある意味・・・

これから先、我々の「宗派」というものがどこへ行ってしまうのだろうか?・・・という示唆が、ここには込められていると思ったりするわけです。(皮肉よん♡「教化センターの間違った歩み」ということよン)

「真言らしさ」という点では、何と言っても、右にある「火渡り」です。
「コレこそが真言!」というものです。
厳密には修験ですが、真ん中の宗派のポスターの真言らしく無さ満点!のものより、遙かによろしい!

初めて「仏さまに祈る」という教化目標が提示された時には「ソレは違うんじゃないか?」という意見もあったとか・・・?

そりゃそうです・・・

真言的には「自分の中に仏を感じる」「自分の中の仏に気付く」という考えだと思っています。
仏とは、どっかにあるモンじゃない。自分の中に感じるものだ、ということでなくちゃイケナイ。
「仏を祈る」なだまだ分かる・・・という感じでしょ?
そもそも「仏さま」という言い方すらどうよ?・・というものだと思う訳ですよ。

智山教化センターがやってることの可笑しさというのは、止めどなく続く・・・です。
困ったものです。

その前の「十善戒」のときも、勝手におかしな「言い換え」をして、それがまた、実に何ともピントはずれが甚だしく、私はその年の研修会でかなり強く噛みつき、意見書も出したですが・・・変わらなかったですね(-_-)

あの「言い換え」は、とにかく酷かった。

しかしながら、今も変わらずあるので、反省する気は皆無、俺たちは正しい!という意思表明とみた!
故に、智山教化センターをバカ呼ばわりする訳ね、私は。(^^)/////

教化センターというところに属する人間は「教学」というものの重要性が分かってない者が殆どじゃなかろうか?
教学が分かって無い頭だから、当然その重要性がワカラナイ・・・そんな感じでしょ。
「教学というものは必要ない」ということでしょ。教化センターとしては。そういうことよ、ね?

「現代」を感じつつ、そこにどう合わせてゆくか・・・
「現代における教化」・・・とかいったものを考えてばかりで「足下を見ていない」「地に足が付いていない」というのが、教化センター。


なんというか・・・

仏教全体が緩くなっていってる・・・というようなことを感じる訳です。

古くは現世利益しか考えていなかった真言が、浄土系の考えを取り入れて「あの世」を考えるようになり、あの世しか見ていなかった浄土系も、現世利益的なことを考えるようになったものです。

それは「時代の要請」というものだったんだと思うのです。
真言に浄土思想が入った(入れた)ように、浄土や禅にも、現世利益的なものが入っています。

外から客観的に見れば「どれも、同じようなものですが・・・」というスネークマンショーの薬屋さんみたいな感じになってる。あるいは、そういう方向に進んでいるんじゃないか?という感じがします。

・・・というようなことを考えたときに・・・

この智山派のポスターや、教化目標といったものが、目指すものは、何か?!ということを思うと・・・

極端なことを言えば「教義が邪魔」ということではないでしょうか?

教化センターに限れば、教義が分かって無いだけ (^^) ですが、ヤツらの「普通の頭」は、一般ピープルの頭と同等・・・ということで考えれば良いことですね。

「教義が邪魔」などと言うと「何をふざけたことを!」と思われるかも知れませんが・・・


もしかしたら・・・教義が不要になるのではないか?・・・という思いがあります。

もしかしたら・・・教義が邪魔になるのではないか?・・・という思いがあります。


初めに「教学が大事。わかってない教化センター」とか言っておきながら、不要だ、とは矛盾してるじゃな~か!と言われるでしょうが・・・同じ「仏教」と言いながら、宗派によって全く違うようなことを言っている、ということが、不都合を呼ぶのではないでしょうか?

こんなことを言ってるヤツもいるわけです↓(^^)/

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一般の人たちの成仏のイメージと、各宗派の教義との乖離があるということを前に書きました。

我々は、自分の宗派の教義だけを勉強しており、それを信じて勤めをしている訳ですが、例えば、お通夜や法事の時にお話をするとき・・・参列者の中に、自分の宗派以外の方が沢山いらっしゃっていることを、考えているボーサンはどれほどいるでしょうか?

自分は自分の宗派のことしか話さなくても、参列者の皆様は、あちこちの葬儀に出て、色んな宗派のボーサンの話を聞いているということです。
参列者は、色んなボーサンを知っているわけです。
この当たり前と言えば当たり前のことに気がついていないボーサンは、結構いると思います。
注意が必要です。ウカウカしていられないと思います。

私は特に、浄土真宗・真宗のボーサンもどき(非僧非俗ですから・・)が、清めの塩や、ケガレ、葬儀のしきたりなどについて「迷信だ」とか言って「持論」を強要することに、強い違和感を感じておりまして・・・そのことを考えているうちに、このような考え・・・
即ち「一般の人たちの成仏のイメージと、各宗派の教義との乖離がある」ということに至ったのです。

時々、参列者が多いお通夜のときに「ウチは真言宗」という方に、挙手していただくと、だいたい一割に満たないことが分かります。

・・・そんなモンなんですよ。実際は・・・。

そこで「お大師様は」とか、真言宗の教義を語ったって、意味が無い、と言って良いと思います。

宗教的に無垢の方もいらっしゃっるでしょうから、その方を「教化」する(ちょっとゴーマンな言い方ですね)意味はあるのでしょうが、それ以外の、すでに信仰する宗教、所属する菩提寺がある方に、違う宗派の教義に基づく話をすることは、意味が無いどころか、失礼なことではないか?と、私は思うのです。

なので、私は、宗派のことは話さず、通仏教的な話にしています。
お通夜だけでなく、法事の際にもなるべくそうしています。


・・・では「教義」とは何なのでしょうか?

上愚母大外科衆生・・・いや「上求菩提、下化衆生(じょうぐぼだい げけしゅじょう)」という言葉があります。
「上求菩提」・・・上に向かって無上菩提を求め「下化衆生」下に向かって衆生を教化する。
「上求菩提」=知恵、「下化衆生」=慈悲。

元々は「上求菩提」だけだったわけですが、そこに知恵を説く慈悲「下化衆生」が加わって大乗仏教となったということでしょううね。自利&利他とも言います。

これは如来の功徳で、多く「三尊形式」の場合、如来様に向かって左が「智慧の菩薩」右が「慈悲の菩薩」であることが多く見られます。

いずれ、教義というものは「上求菩提」のみに生きてくるものではないか?という思いがあります。

お釈迦様はお悟りを見つけられた時に、これは、難しいから、人々に説く、ということは考えなかったのを、梵天さんに「説いてください」と頼まれ、説法をするようになったというお話。

その「悟り」が「智慧」で「説く」というのが「慈悲」というわけです。

この「悟りを求める気持ち」・・・それが、我々が持する気持ちであって、それによって得たことを皆さんに話す、ということなんだと思います。

その「下化衆生」の部分は・・・長いスパンで考えると・・・もしかしたら、どの宗派も「同じようなもの」になってゆくのかもしれません。

教義は、あくまでも、我々僧侶の側の問題、ということになってしまうのではないか?と思ったりするわけです。

我々は、ひたすら教義を勉強し、行を積む・・・ココに限定される、という方向性も感じられます。

一般の人に対しては、通仏教的・・・というより「世間が何となく求めているような、心安らぐもの」というような、実に何ともナサケナイものになってしまったりするのかも知れません。

仏教が、大乗仏教となり、やがて、浄土も真言も同じようになって、近い将来「何となく仏教」的な生やさしいモノになってしまったりするんじゃないか?!・・・と思ふわけです。


・・・続く?・・・・

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この記事へのコメント

三日ボーズ
2014年06月21日 07:51
実は、ネット寺院・彼岸寺がやってるのが、これだったりします。
彼らの場合は、教義も行もワカランヤツらがやってるわけですが・・・
ある意味で、先見の明があったりするのかも知れません(皮肉ヨン♡)
彼らのような教義がわからんボーズは、ダメです。
2014年06月21日 10:05
こんにちは。久し振りのコメントです。ブログはいつも拝読しています。

☆☆ 真言的には「自分の中に仏を感じる」「自分の中の仏に気付く」という考えだと思っています。☆☆

おっしやる様に真言宗の教義は自力で解脱をして即身成仏する事だと、弘法大師の表した経典や書籍に書かれていますね。禅宗系もそれに近いです。どちらの宗派も般若心経を所依の経典として良く唱えられて居ます。自力本願。。。

浄土系や念仏系は、御本尊におすがりして念仏を唱えれば浄土からお迎えが来ると言う教義です。他力本願。。。 密教や禅宗とは根本的に異ります。

お釈迦様が悟りを開いてから仏陀として北インドの諸国を説法して行脚して居た時、対機説法を行いました。相手の能力に応じて、相手に相応しい手段で比喩的に応病予薬しています。宗教に関心の少ない人にいきなり、高度な教義を解説しても理解出来ないと思います。

この世に人間として生まれても四苦八苦の連続で、僅かな甘露にすがりたいと思うのは人情です。 '' 黒白二鼠 '' と言うたとえ話はそう言った意味で示唆に富んでいます。この絶体絶命のピンチから救ってくれるのが、宗教だと私は思います。
2014年06月21日 13:32
三日ボーズさんへ

ご指摘のネット寺院・彼岸寺を先ほど iPad で見に行きました。なるほど仰る様に仏教の正統な教義とはかけ離れていますね。面白おかしく人気取りに終始しています。

ただ、批判だけしても得る物が無いので、100歩譲って先ずは全く仏教に関心の無かった人へ、初心者への啓蒙活動としての意味合いで有れば良いと思います。人は十人十色ですね。

このブログは仏教の啓蒙活動に多大な貢献をしており、教義の開示と解説をされると良いなぁと思います。小生のブログでは、在家信者の素人の話として冷や汗をかきながら、未熟な仏教の解説をしています。
三日ボーズ
2014年06月21日 18:44
>自力で解脱をして即身成仏する
・・・というのは、ちょっと微妙ですね。解脱というとちょっと違うかな?という感じ。

>どちらの宗派も般若心経を所依の経典として
・・・これは、どちらも心経は「所依の経典」ではありません。
解釈もそれぞれ。ちなみに、禅宗系では「所依の経典」と言える物はないんじゃないか?と思います。

彼岸寺は、入り口を入ってみても「玄関しか無かったジャン(^o^)」なので、困るわけです。
三人文殊
2014年06月22日 07:30
>極端なことを言えば「教義が邪魔」ということではないでしょうか?

失礼ながら「今更ですか」という感じがしないでもないです(*^_^*)

真言宗の檀家さんで「真言宗の教義」に依って檀家になった人などほとんどいないと思います。

状況は他宗でも同じです。

日本教という日本オリジナルの教えの一部分として「仏教」が使われているだけですから(*^_^*)
三日ボーズ
2014年06月22日 09:04
何度も書いてきたことですが・・・(^^)

>真言宗の檀家さんで「真言宗の教義」に依って檀家になった人などほとんどいないと思います。

これは、理由がハッキリしています。
江戸時代の寺請制度の影響が大きくて、何せ「無理遣り檀家」で、極端な話、神主さんも寺の檀家。おまけに、ボーサンも派遣みたいなもので、長く住むこともなく、頻繁に代わったり、下手すりゃ、宗派も代わっちゃったってことも普通になった様子。

仏教がすぐれているのは、伝播したそれぞれの土地の土俗の宗教と馴染んで変化することができた、ということだとは思っています。
通りすがり
2014年09月20日 21:07
はじめまして。現役のお坊さんの考えが読める有意義なブログですね。

>>我々は、ひたすら教義を勉強し、行を積む・・・ココに限定される、という方向性も感じられます。

賛成です。「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」ー「戒律を守り、瞑想修行に励む」につきますね。

少なくとも、他人の悪口ばかり言う坊さんは、度し難いとおもいます。


何のために坊さんやってるんでしょうか。

残念なことに坊さんでまともな人間はみたことがありません。類は友を呼ぶのでしょうか。私の不徳のいたすところかもしれませんが、、、、。



三日ボーズ
2014年09月21日 00:12
>他人の悪口ばかり言う坊さんは、度し難いとおもいます

・・・私のことを言われているようですが・・・

昨日の記事「智山の論義」に書いたように、教義に関しては、これが正論と思ったら「論戦やむなし」なのであります。
論を戦わせるのも、ボーサンの行だと思っております。

・・・という言い訳(-_-)
通りすがり2
2014年10月04日 16:11
>これが正論と思ったら「論戦やむなし」なのであります。
論を戦わせるのも、ボーサンの行だと思っております。

失礼な発言でしたのに、コメントを返して下さり、ありがとうございます。
確かに、仏教は本来は部派の時代より「理屈っぽい」論争する宗教でしたよね。
あなたの仰ることは理にかなっていますね。失礼致しました。

但し、日本の仏教は、釈尊当時の仏教とは全く関係ないものになっていて、
むしろ釈尊を「冒涜」(失礼)している宗教と言っても過言ではないでしょう。
バラモンたちが、護摩を焚いてるのを見て、迷いの原因となるからやめなさい、といったのが釈尊でしょう。神に祈ってる迷える人たちに、この世を支配する神はいないので、自らの心を清浄にすることで苦を除け、とおっしゃってるのが釈尊でしょう。阿弥陀も薬師もすべて後世の人の妄想に過ぎません。
そんなものに対して、
真剣に「教義」や「行」の厳密さを求めるのは全くナンセンスだと思います。
勉強熱心で、そして熱い心を持ってらっしゃるブログ主様はどうお考えなのでしょう。(菩提寺の住職も副住職も、外車を乗り回し、ゴルフが大好きで、大正大学を卒業しているどうしよもない人間ですので、こうした質問は理解できないでしょうから、ブログ主様にお聞きした次第です。。。頭が弱いのは仕方ないとしても、人間性がひどいのです。宗派のエライ方だとお聞きして2度びっくりです。)

通りすがり2
2014年10月04日 16:13
大変失礼な物言いで申し訳ありませんが、現役のおぼうさんの考えを聞きたいです。よろしくおねがいします。

なお、私は、日本仏教を否定しているわけではありません。きっと日本の仏教は
日本人の宗教観を說明するためのツールとして、超大国だった中国から輸入して、日本人の倫理道徳の礎となったのでしょう。隣国を悪く言うつもりはありませんが、中国も半島もそれを捨て去ってしまったので、とても残念な国として何世紀も過ごし、恐らく今後も、気の毒な歴史を歩んでいくのでしょう。
通りすがり2
2014年10月04日 16:45
すみません。10月2日の記事にある程度書いておられましたね。
読まずにコメント失礼しました。

でも、もう少し詳しく解説してくださるともっと嬉しいです。

三日ボーズ
2014年10月04日 23:58
以前、遺教経を自分なりに訳した記事を書きましたが、そのお釈迦様のところまで戻っちゃうと、さて、何が仏教なのか、分からなくなってしまいます。
そもそも、仏教ではなく「仏法」だったはずなのです。
我々が求めるものは、お釈迦様が悟られた「法(=さとり)」を見つけることだったのが「これがお釈迦様の教えだ」という「教」になってしまいました。
お釈迦様ではなく、その向こうに悟りを見つけるのが、もともとの仏教の心だったのだと思います。

これから、おいおい、書いてゆくつもりです。
親鸞・法然・明恵という高僧を考える中から、質問のお答えになるものが出て来れば良いな・・・と思います。

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