今 考える未来の仏教~次代を担う立場から~(その2)

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とにかく、タイトルの「未来の仏教」が気になるのであります。
やっぱり「未来の住職塾」に単純に影響されちゃったのでしょうか?

「未来の」と言ってしまう時点で「だめだこりゃ・・・」なのでありますが・・・乗りかかった船なので、以前から書いていることの繰り返しになりますが、シンポジウムの内容と絡めて、改めて書くことにしました。

「未来の」と言ってしまう時点で「だめだ」・・・というようなことは主催している若い人にはワカランのかも知れませんが・・・やっぱり、地に足が付いていないという感じがいたします。
「未来」などと言っていては駄目です!・・・現実の問題なのですから。

コメンテーターとして登壇されていた「未来の住職塾」講師の井出悦郎氏の、資料に書かれていた「コメンテーターからの一言」に・・・

数十年も前から仏教会では、離郷檀家対策、来るべき人口減少社会への対応等の問題意識が叫ばれてきました。しかし、先見性のある問題提起に対し、宗派や各寺院は適切に対応していないのが実態です。「何故我々は変われないのか」という命題が、伝統仏教界の前に厳然と横たわっています。

・・・まあ、軽いというか、誰でも言えるような表面的な「一言」であります。

離郷檀家対策と言っても、これは、過疎の問題で、仏教界がどうこうできる問題ではなく、町・村の人だけでなく「家」が減って、当然ながら檀家が減って行く・・・。
そういう形で、寺もコミュニティと共に、消えるということも現実として、あります。
コメンテーター氏は「今こそ企業と同様に統廃合すべき時代だ」という、何だかピントが外れたことを言っていましたが、これは、アンタに言われなくても、ず~~~~っと前から「兼務寺院」という形ができていたですよ。

過疎によって寺院だけでは生活できなくなった寺院を、近くの寺院が面倒見る、ということです。
ウチも、そうでした。
先代(祖父)が、農家から、恐らく昔は「談林」と呼ばれた大寺院に出家し、やがて、その寺院で兼務していた当寺に入ったのです。
今でも、空いた寺をいくつも兼務している寺は多いようです。
これは、明治の廃仏毀釈の影響もあるんだと思います。

そう・・・

「廃仏毀釈」というムーブメントによる大々ピンチを、檀家制度(寺請け制度)は乗りこえてきたのです。
ですから、そう簡単には崩れないものだと思う訳です。
戦争中の「靖国神社信仰」にだって持ちこたえたのです。

そうです! 強いんです・・・ご先祖様は!!

ただし・・・ここで、重要な問題があります。

実は、廃仏毀釈も、靖国神社も乗りこえた強い意思は、実は、仏教によるものではなかった!!

・・・というのが、私の考えです。

これは、仏教者に言うと、ましてや、今回のシンポジウムの主催者たる若い僧侶の皆さんには分かって貰えないと思いますが・・・

寺壇関係を保ったのは「ご先祖様!」なのです。

・・・え? 仏教だろうって?

・・・違います。

これは、日本人の仏教以前から持ち続けて、今もその中心にある考えです。

亡くなった人は、あの世に行って、そこから私たちを見守っていてくれる

・・・ひと言で言ってしまえば、こういうことです。

実にシンプルなのです。これだけです。
これが、日本人の死生観です。

ここに仏教は乗っかっているだけなのです。

「さあ、未来に向けて(^^)頑張ろう」と思っている若い人や、ベテランの方には申し訳ないですが、一人一人は別として、実は、日本人は「仏教の教義はどうでもいい」ということなんだと思っています。

近年、そこに、宗教を知らない世代が増えて、迷走しているかのようですが、どうして、どうして、この部分は変わっていないように思うのです。

仏教に関わる者としては、何とも残念なことですが・・・そう考えています。
そう考えると、色々なことがスッキリしてきます。

宗派とは関係無く、現在も色々な風習が残っています。
これは、場所によって様々で、何とも捕らえどころがないようですが、ひとつ、共通した事があります。

それは・・・「宗教には関係無い」ということです。

習俗・しきたりといったものは、宗派とは関係無く存在し、実はより広い範囲で共通性がある、ということも言えます。

・・・ということは、どういうことか?

日本人は、習俗こそを大切にしてきたのです。

仏教の理屈による「成仏」といったものは、飽くまでもその上に成り立っている、というか、成り立ってすらいない、という感じもします。

・・・なんだか、身も蓋も無いような話ですが、前に書いたように、寺と檀家さんとの繋がりが今日まで保たれて来たのは「ご先祖様」が繋いできたのです。
これは仏教ではなく「民間の習俗」なのです。仏教以前から今日まで脈々と続いてきた日本人の本来の信仰で、これが揺るがないものだったのです。

シンポジウムの「開催趣旨」に、次のような記述があります。

昭和62年に第1号が発刊された『仏教』(法蔵館)という雑誌では「学校の中から真の教育が失われつつあるように、寺の催しに人は集まらず、カルチュアセンター式の講演に仏教の知識を聞きに人は寄り集う。」と、社会の寺離れを指摘しています。また、同書では「現代において仏教はどのような役割を担いうるか」と問い~略~
藤井實應浄土門主は「現状は多くの寺院が死者を弔う葬儀法要は、わが民族的社会的要望に応うる役割を果たしているが、仏教者としては第二義的なことである。仏教者として生活の上の安らぎと勇気を与える仏教精神の教化に力をそそがねばならぬ」と述べています。


・・ま、ここでも「寺に人が集まらない」と嘆いていますが、さて、寺に人を集める必要があるのでしょうか?

ご門主は葬儀をすることを「仏教者としては第二義的なことである」と仰っていますが、私は、これは間違っていると思います。

死者を弔う葬儀法要」こそが第一義!なのです。

葬式仏教こそが僧侶&寺に課せられた重大な使命なのです。

「葬式仏教」を揶揄する言葉として使っている人も、揶揄されていると思っている僧侶も、思い違いをして、本質を見ていないのです。

葬式仏教こそが、、おそらく鎌倉時代以降の日本における仏教の存在意義なのです。

葬儀をキチンとする」そして「弔い上げまでの供養をキチンとする」ということが、我々僧侶に課せられた、最重要項目であり「これだけ!」と言っても良いくらいだと、私は思っています。


・・・続く・・・


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この記事へのコメント

匿名僧(臨済)
2015年02月26日 08:47
この記事に完全同意です。いや素晴らしいご指摘だ。

特に、今まで仏教が続いてきたのは「仏教」でなく、先人が「ご先祖」を大切にする気持ちでありたまたまそれに仏教がのっていたという観点。
これは現場で葬儀法事を行っていれば、よほどボーッとしていない限り気が付くことですよね。しかしそれは宗派本部としては認められない(認めたくない)のか、あるいは本部の関係者は檀家相手の機会が少なすぎて気が付かないのか、本部がこういう見解を示すことはないですね。
もちろん各寺の歴代住職や宗派本部が頑張ってきた面も否定はしませんが、それだけだったらネットもマスコミもない時代に、全国規模でほぼ足並み揃えて示談関係の維持はできなかったでしょう。
宗派を選んで檀家になったわけではなく、ご先祖様を大切にする気持ちが今まで寺を維持してきた主動力だったことをまずは認めないといけないでしょうね。
匿名僧(臨済)
2015年02月26日 08:47
(続き)
そしてタイトルもご指摘の通りでしょう。
「未来」というと厳密には明日やあさってという近い未来も含みますが、一般的にはしばらく後の将来を指すニュアンスが強いでしょう。
あえて「未来」というような遠い先の設定をしてメリットがある話ならともかく、こうした企画であれば「未来」でなく「今の」「現代の」におきかえたほうがはるかに現実味があるというか、切羽詰まった必要性を感じることができるでしょう。40代以下の若手なら「未来の」という題に惹かれるかもしれませんが、ご指摘の通りそんな後のことを想定してもどうせ予想通りにならないから日頃の活動の中で数%程度割いておけば充分。むしろ、「今どうするべきか」という題にして同様の内容を研究する方が重要です。

まあ、「未来の」の方が、ある意味だまされて興味を持つ人が増えるし、半分夢や希望を込めてあれこれ現実逃避できるから企画者側としては地味で責任が重くなる「今の」「現代の」よりも都合がいいのかもしれませんね。
今後も鋭い御卓見を期待しています。
三日ボーズ
2015年02月26日 13:58
・・・m(_ _)m

実は、寺壇制度が作られた江戸時代ですが、寺の住職が3年もいればいい方で、しょっちゅう変わってしまっていて、一年にも満たない、という事もあったそうです。
明治以来、世襲を認めて、昭和に入った頃から、世襲が始まることによって、寺は初めて安定したのかも知れません。世襲によって、寺への責任が生まれたという面もあり、また、責任がハッキリした、という面もあると思います。
そう考えると、世襲も悪くない、と思います。
三日ボーズ
2015年02月26日 14:47
それまでは、恐らく事務的な感じだった寺と僧侶の関係も、世襲ということによって、我々の側にも「自分の寺を守る」という認識ができて、先祖を守って貰う寺、という檀家さんのベクトルに答えられているんだと思います。
匿名僧(臨済)
2015年02月26日 17:10
そうですね、悪く言えば昔の寺は出世の途中のワンステップであって、どうせ長くいないのだからという意識が住職にも少なからずあり、また檀家側にもあったと推測できます。

私は宗派の中枢の寺に役僧として在籍していたことがありますが、担当を割り当てられた檀家宅に法事に行くと、はっきりものをいう人は「あ、あなた新しい担当の方?どうせ今までみたいに数年で交替しちゃうだろうから、あまり親しくなっても意味ないんだよねえー。前の人なんか名前も忘れちゃったw ま、ちゃんとお経あげてくれたらそれで良いから」と言われたことがあります。

それではいかん、と在務中は自分の寺の檀家以上にしっかり交流しましたら、「いやあ、あなたがやめてしまうと困るなあ、ずっと残ってもらいたい」と言われるようにもなりました。

本山クラスでは仕方ない状況ですが、檀家の立場からすると世襲の方がメリットが大きいと思います。まあ、住職の性格や技量が「標準以上」であることが最低条件ですが。

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