彼の岸の あの人に会う 墓参り

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彼岸が明けた火曜日、もうお参りの方はいないどうろう、と、第二霊園のお花を片付けに行くと・・・
駐車場に自転車が停まっていて、お参りの女性がいた。

ていねいに墓石を拭いていた。
昨年、いや、一昨年だったか、葬儀をした方だった。
ご主人を亡くされた奥様。

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ワタシがひととおり片付ける間、ずっとお墓にいた。
途中、スマホで写真を撮って欲しいと言われて、撮った。

会いに来たご主人との記念写真ということかも知れない。
これまでもよく撮っていたように、同じように撮ることで心の隙間が埋められるのかもしれないと思った。

ご主人を亡くされ、心に隙間が出来たままなのかも知れない。
埋めようのない空間があるのだろう。
ずっと心にいた、いや、実際の生活を共にして、実際の生活空間にいた人がいなくなれば、家の中に「いるはずの人がいない」という、マイナスの力を持った空間が、家の中のあちこちにある。
心の中、記憶の中にいるけれども、いや、だからこそ「いない」という事実・現実が、そのマイナスの空間と心を結びつけ、悲しみを増す。

それが、「空(くう)」なのかも知れない・・・と思った。
あるけど無い、無いけどある。
いるはずの人がいなくなった空間は、心を伴って「空」となるのか。

(心には)いるけど(ここには)いない、(ここには)いないけど(心には)いる。

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亡くなった人はどこにいるのか?

・・・「どこか」にいる。

・・・でも「極楽」とか言われてもワカラナイ。つかみ所が無い別次元の話。

お墓にあるお骨は、紛れもない「故人そのものの亡骸」。いや、故人、そのもの。
故人がいた証し。・・・いや、実体を伴った故人、そのもの。
自分と同じ次元にいる故人、そのもの。

だから、お墓参りする。

「ここにはあの人がいる」・・・ただひたすら、この思い。

変わり果てた姿であることは葬儀の時に見た。
でも、お骨は、あの人の証し、あの人そのもの・・・

仏壇の位牌だって、身近な存在だけれど、いまひとつピンと来ないのかも知れない。
お骨こそが、故人の証し、故人そのもの・・・

お家の「空」をいっとき満たしてくれるのが、お墓、なのかも知れない・・・

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彼岸の中日は過ぎたけれど、夕陽が西の空に沈んでゆく。

夕陽が、花を染める。

阿弥陀様の光がお墓を染める。











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