宇都宮空襲戦災殉難者追悼法要

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1945年(昭和20年)7月12日。
米軍B-29重爆撃機133機が宇都宮市街地域を中心に爆撃、市街区域の約65%の地域が被災、600余名が死亡した。
世に言う「宇都宮空襲」である。

1945年(昭和20年)7月12日夕方(日本時間)にテニアン基地のハゴイ飛行場を飛び立ったB-29の編隊133機(第21爆撃機軍団第58航空団)は、同午後11時頃に鹿島灘から日本本土に侵入、茨城県水戸市上空を西進して栃木県に進入、同午後11時19分(米軍資料による)に宇都宮への空襲が開始された。
攻撃目標は現在の宇都宮市立中央小学校であった。
この日は降雨による悪天候であったため、宇都宮駅周辺、栃木県庁周辺、宇都宮市役所周辺、東武鉄道東武宇都宮駅といった中心市街地一帯、当時の宇都宮市域の約65%が被災したものの、全滅は免れた。

翌日午前1時39分(米軍資料による)に空襲が終了し、米軍機編隊は東方に飛び去った。
使用された爆弾はE46集束焼夷弾10,500発、M47焼夷弾2,204発であり、計802.9tが投下された。
この空襲による罹災人口は47,976人、罹災世帯数10,603世帯、死者628名、負傷者約1,150名、焼失戸数9,490戸といわれている。

(Wiki先生)

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宇都宮仏教会では、その翌年の一周忌から現在まで、一度も欠かさず供養している。
自分の家(寺)も焼けてしまった所が多いのに、焼け残った寺で一周忌をきちんと勤めていた先輩は偉いと思う。
その先輩たちの思いを受け継ぐことが我々の役目。

今年は、西原の報恩寺。
この辺りは焼け残った所だ。

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あまり良く知らないことだけれど・・・・

明治期から昭和前期にかけて、宇都宮には日露戦争後の軍需拡大によって編成された陸軍第14師団司令部が常設され、その隷下の歩兵第27旅団司令部をはじめ歩兵第59連隊や野砲兵第20連隊、輜重兵第14連隊、騎兵第18連隊などが駐留、これに所属する10,000名を超える軍関係者が常時駐屯した。この軍関係者を顧客とする様々なサービス産業が活況を呈し、バンバと呼ばれた旧・馬場町周辺、現在のオリオン通りを中心とする市街地が発展した。また一方で軍需産業の中島飛行機や関東工業などの誘致にも成功し、軍需に沸く宇都宮は軍都と呼ばれるようになった。(Wiki先生)

・・・ということなんだそうな。

ちなみに宮崎駿さんは、4歳の時に宇都宮空襲に遭遇し、後の人生や作品に大きな影響を与えた、と語っておられるんだそうな。

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三回忌では、大通りを提灯行列で歩いたんだとか。
その提灯を灯籠にして釜川に流した。

それとは別に、宇都宮を流れる田川流域の簗瀬地区では、灯籠流しを行なったいた。
空襲の時には、水を求めて田川に集まった人たちの遺体が、正に死屍累々の状態だったとか。

戦後は、灯籠流しに、それらの霊の供養という意味合いも加わったのだろう。
そこに宇都宮仏教会も加わって、コレもまた、ず~~~~っと続けている。
元々、簗瀬地区の灯籠流しは16日の送り盆だったが、おそらく仏教会が関わるようになって、ソコはキツい、ということで移動して、現在は宇都宮の「宮まつり」と同じ日、8月の第一土曜日に開催している。

戦災殉難者追悼法要は、さすがに遺族も減ってきて、年々参加者も減っているけれど、仏教会では、たとえ参列者がいなくなっても続ける、という思いを共にしている。









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