お経の翻訳機~?

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2月13日の朝日新聞にこのような記事があった。

お経を現代語に「翻訳」する装置を開発し、参列者に見せる工夫はできないものか
・・・と寺に問われても困る。

この人は、結局、仏教のアレコレを何もご存じないようす。
こういう半端な意見を採り上げられてもこまるが、新聞社の担当の知識も同等なのだろうと推測できる。

これが、また、昨日の朝日で、これを元にした記事が書かれて、それがTwitterのワタシのタイムラインに流れてきた。
この記事については書くつもりだったので今回書くことにした。

そもそも、こういう取り上げ方をする・・・という新聞社の意思もまるということを忘れてはならない。
記事を選ぶ「意思」を抜きにして、こういうものを極端に言えば「一般大衆の総意」であるかのように思ってはイケナイ。
最近、Twitterなど、SNSに書きこまれた文言を気にし過ぎな傾向がある。
例えば、Twitterに書かれた物なら、Twitterをやっている人間の思考の傾向、というものがあると思う。
まず、そこで「選別」がある。
その上での意見、であって、一般的に多数の意見とは言いがたい。
ヒドイのは、テレビ番組で、その番組を見ているTwitter投稿を取り上げるという愚行をやっている。
紹介するのは「選ばれたいくつか」に過ぎない。
しかも、番組の意向に沿ったものだ。
沢山の中から選ばれたにしては、どうでも良いようなものばかりで、例えば「こんなん、NHKの電波で流すものか?」・・・というものがほとんど。

こんなことを言っては怒る者もいるのだろうが、Twitterにいる、というだけで、かなり偏向している意見であると言えるものが多い。

また、SNSの普及は「揚げ足取り」を増やした。
人が何かいえば、その反対意見や、揚げ足取りをする。
「人が気がつかないこんなことをワタシは気がついちゃったんだもね~、どうだ偉いだろ!」・・・的書き込みが多くある。
こういう自分は「かしこい」ぞ主張型人間を、SNSは増やした。

本題に入る前にいきなり横道に迷い込んでしまった・・・m(_ _)m

この投書の主は、こういう傾向を持つ現代人、という感じがする。
検索すればすぐに分かる、ということを繰り返していると、安易にはワカラナイものに、理不尽さを覚えるのだろうと思う。
お経はその最たるものだ。

そして、もうひとつ、旧態依然たるものを否定する、ということが賢い、と思っているフシがある。
新聞記者、中でも朝日に多い傾向があるように見受けられる。

この意見も、そういったことを前提に見る必要がある。


単純すぎる点として、まず、翻訳機など造らなくても、沢山の翻訳はある。
ただ、翻訳して読まない、ということだ。

また、大概のお経は、殆ど翻訳されて売られているから、Amazonでポチッとすれば手に入る。

おそらくこの人は、お寺で話を聴く機会も殆ど無かったのだろうとおもう。
それを棚に上げて、お経の意味を先に説明してほしいというのもナンダカナ・・・と思う。

葬儀は何よりも先にまず「儀式」であります。
儀式としてキチンと形作る必要があります。
故人を弔う儀式です。

以前、浄土宗のボーサンの結婚式に出た者の、導師が何かをする前にいちいち意味を説明するのであります。
これが、儀式としての流れをブツブツと切ってしまって、良いものでは無かった。
やはり、儀式としての重みというものは必要。

誰のための葬儀か、
仏様や故人に対して何を語り、
何をお願いし、
何を約束したのか。
お経の前にそういした説明がなく、まったくわからなかった。
形式、格式を重んじていても、その中身は空虚に感じられた。


これは、ボーサンが言う前に、ほぼ常識的に身につけておいてほしいことだとワタシはおもう。
あなたは、今の今まで何を考えて生きてきたのか?というレベルだと思う。

そう思って・・・よくよく見れば「81歳」!!
もう何度も何度も友人知人の葬儀に出てきたろう?!
いくらなんでも、ボーサンの話を聴く機会も多くあったろう?
どーかしている、としか思えない。
余程、ボーズと法会に恵まれなかったのだろう・・・か?
わたしは、この理解の無さが不思議だ。

また、横道・・・イカンイカン・・・


さて、お経は、翻訳をしない、ということ。

中国では、玄奘三蔵はじめ、多くの翻訳家がサンスクリット語のお経を翻訳している。
ずべて、中国語に訳したものを用いている。
逆に言うと、サンスクリット原点は重要視しない。
翻訳の元になったサンスクリット経典が、中国から、殆ど出てこないのは、重要視しないからで、ひょっとしたら捨ててしまっていたのかも知れない。

日本では、お経が入ると、それをそのまま読むことに注力した。

「四声点」というものがある。
これは、感じの四隅、あるいは左右を入れて六カ所に「○点」を付けて、中国語のアクセントを表記していた。

これは、「お経を中国語で読む」ということだと思える。

おそらく、いにしえ人は、中国語のお経を「そのままお釈迦様の言葉」として、大切に思ったのだろうと思う。
だから、翻訳しなかった。

勿論、経典についての研究はした。

「経・律・論」の三学の「論」は「経論」、お経について論じること。

奈良時代までは、今の法要の形は無く、しばらく「論義」を持って、法会と成した。
論義は徹底的に成されている。

鎌倉仏教と呼ばれる宗派、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗などは、「祖師」が書かれた物を読む。
日蓮宗などは、今一番ソコに拘っているようだ。

浄土真宗が、親鸞上人や蓮如上人などが書かれたものを読む。
親鸞上人の和讃などは、分かりやすく、そもそも、真宗では、信徒サンが一緒に読む。

真言は、儀式を重んじる。
そして、真言・天台は、祖師の著作を法会で読む、ということをしない、という特徴がある。

この投稿者がいう、例えばキリスト教の聖書は「翻訳」されたものだから分かるのは当たり前。
内容が分からなければ始まらないから。

でも、仏教は、訳さない。
ワカラナイままでよかった・・・これが、仏教を包む日本の文化だったのだ。

真言ではもともと、あまり法話をするボーサンが少なかったと聞く。
真宗は、分かりやすいお経を、もっと分かりやすくするために芸能化した「節談説法」などもうまれた。

以前、通夜の読経を模索しているときに、「般若心経の訓読」というものを見つけて読んでみたが、ナンダカ締まらない。
せいぜい「遺教経」とか「舎利和讃」とかかな?・・・と思ったが、我々には「ご詠歌」があるので、これをお唱えするようにした。
ご詠歌は、教義を八(七)五調、或いは和歌に詠んだものに、節を付けた歌。
これは、分かりやすいと評判が良い。
儀式を崩さずに分かりやすいものを・・・という点では、ご詠歌が良いのだと思う。


また、儀式を重んじ、それを深める「声明」というものが大切にされてきた。

「唄」(ばい)という声明など、「一文字」を読むのに何分もかかる。
これは、意味もヘッタクレも無い。
音楽として作られている。
儀式のためである。

また・・・こういう面もあろうかと思う。

悪く言えば・・・「命」という、ワケがワカランものを「お経」というワカランもので葬る、ということである。

宗教というものは、いずれもそういう面をもつ。

人間という生物が死んで、もし死後の世界があるとしたら、それはひとつに決まってる。
しかし、色んな民族、色んな宗教で、それぞれ「あの世」は違う。

それは「ワカラナイ」からだ。

ワカラナイから、それぞれ理想の世界を思い描く。
ワカラナイものに、それぞれの論理で決着を付けるのが宗教だと言っていい。

日本の葬儀は、この「儀式」という部分が特に重要視されている、ということ。

我々がする引導は、いにしえ人が綿密に論理展開して組み立てたもの。
そのいちいちを我々は知った上で行っているけれど、それを全て説明する必要なないだろう。

その部分は、我々が「任されている」ものだ。
多くの人も「任せている」。

お経も、そういう面がある。

ウチの派の学者サンが、「我々はどうして皆さんに尻を向けてお経を読むんでしょ~ね~?」と言っていた。

葬儀や法事で前を向いてお経を読むのは、我々の言葉で説かれた仏様の言葉(=法)を、仏様に向かって読み上げることで「こうなんですよね」と、確認するようなものだと思っている。
その時は、一般の人と同じ向きで唱え、読む。

そこから、振り向いて話す時には、仏様を背にする。
これは、自分が仏様の説く(=説明・解説する)ということで、仏様と同じになる。
浄土真宗・浄土宗のボーサン、特に真宗では、法話を以て法要と成す、という感じがある。
しかし、これは「儀式」の中では、やはり相応しくないと思う。

・・・ワタシは、そう思っている。

ここで、私らは、私らのことばで、分かりやすく説明するわけだ。
これは、儀式の中でするものではないと思っている。

火葬が終わった後、寺に集まってもらって、色々話すというお寺がある。
ナルホド、と思うが、葬儀自体大変なことなので、そこまで負担は掛けられないように思う。
その後、四十九日以降、法事があるから、その都度、話すということでナントカご理解いただくしかないか、な・・・・と。


ちなみに・・・

仏法は文字や形として現れるものではないけれど、我々はそれではワカラナイから、理解できるように、我々の言葉で説かれているのだ・・・というのが、弘法大師様のお考え・・・だと、思っている。

そういう意味では、すでに翻訳されている、とも言える。




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この記事へのコメント

通りすがりの坊主
2019年04月10日 12:55
ある人がこんな事を書いていました。「葬儀の時に経本を配って僧侶に合わせてみんな読むように言われた。僧侶に合わせて慌てて一生懸命読んで葬儀は終わった。お経を読むことが大切なことなのは分かるけど、それでも今は故人のことを思い出してただ泣きたかった。」
意味のわからないお経でもBGMのように厳かにしかも優しく流れて、その中で亡き人のことを思い出してただ泣く。そんな時間があってもいいと思います。
お経の説明は49日や年忌や説教会でいくらでもできますからね。
三日ボーズ
2019年04月10日 15:20
気を散らさない、という意味では、集中してお経を読むというのも良いのかも知れませんが、故人を思う気持ちが大切ですね~。
寝られないお経じゃだめ、ご詠歌もお経も寝られるくらいがいい、と思ってますが・・・
BGM、そうですね、故人を思う瞑想を邪魔しちゃいけませんですね~。

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