「アンチ佛式葬」について考える(その5)

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バブル以降増えた葬儀社の思惑は恐らく外れて、増えた葬儀は小さい規模の物になっていった。

戦後のベビーブームの人たちが鬼籍に入るお年頃となって、葬儀が増えることは誰にも分かったことだったので、それに当て込んで葬儀社が増えた。
しかし・・・
バブルの洗礼を受けた人々は「夢ある未来」から「迫り来る現実」を見据えるようになったのかも知れない。

バブル期に「自分たちの墓が欲しい」と慌てて契約したものの、結局、子供の数が少なくなったことで、その墓を今後見る人がいなくなる・・・という状況が、今になって見られるようになった。
これが「今在る現実」である。

葬儀も、核家族が行なう場合、実家から離れているから、ソッチから来るのは、実家と親類。
そして、主に会社関係の人、ということになるのだろうか?
だいたい兄弟が少ない傾向があるから、ソッチ関係の人も少ない。
・・・というような理由で、会葬者が少なくなる。・・・規模が小さくなる。

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それに加えて「信心」という問題がある。

何度も書いているように、核家族の家には、だいたい宗教が無い。
当然、寺との付き合いというものが無く「佛式での葬儀」というものへの重要性・必然性というものが余り感じられない、という人が多いと思う。

葬儀と言えば何となく仏教だろう・・・という感じ。

葬儀をするにはなんとなく、あるいは、仕方なくお寺に頼む。

そこに「お布施・戒名料」という不可思議な理解しがたい「料金」が必要になる。
・・・これが、何だかワカラナイけれど、これが、ベラボウに高いらしい。
・・・という話が喧伝される。

葬儀は小さくなるし、佛式だとお布施が高くて、より葬儀費用を抑える気持ちになるだろう。

葬儀社としては、葬儀式そのものが大事なのであって、それが佛式だろうが関係無い、ということもあるかも知れない。
その方が、葬儀社としては葬儀費用を高く出せる、という事情もあるかも知れない。

昔、田舎では、葬儀はお互い様だったから、お金が必要なのは、手伝いへの心付けと、お布施くらいだったのが、都市部においては近所の互助制度など無いから、その全部を業者に委託する、という形が必要になり、葬儀社が出来た。

核家族が葬儀を出すことは不可能であり、葬儀社という手助けが必要となり、その分余計なお金がかかるようになってしまった、というのが、客観的事実である。

そのうち、田舎でも、ホールで葬儀をやるようになって、昔からの互助制度は殆ど崩壊したようなもの。

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核家族の葬儀の多くは、もともと信心があってするのは少なく、信心の要素はドンドン薄れて、そのうち葬儀など必要無い、という流れがごく一部で起きてきた。

「信心」というのは、死者への怖れ、というものも含まれる。
それは源信さんの『往生要集』に始まる、成仏への願いということにもなる。
これが信心。

初めから、こういう気持ちを持てていない人にとってはどうでもいいことで、そういう信心が無ければ、佛式である必要性も必然性も無い。
ここで「直葬」というものが生まれる。

結婚式が、個人的独自性を考えるようになり「自分らしい・・・」という概念で構築されるようになり、集団の流れに従ってきた日本人が「個性」を訴えるようになって、「個の時代」という雰囲気が出てくる。

葬儀に対しても同様の気持ちになって、多様化が進む。
樹木葬なんて~ものが生まれたり、葬儀もお墓も多様化が始まると、それはドンソン進んでゆくこととなる。

葬儀も信心では無くて、経済問題として語られるようになって、お布施の問題とかがマスコミでもクローズアップしてくる。
信心抜きの経済論、という感じになる。

そうなると、安く出来る葬儀、ということを考えるようになって・・・色んな葬儀の形がでてくる。

葬儀社等々がオリジナリティを主張しだし、勝手に暴走する感じとなって今に至る。
「エンディング産業展」など見ると、葬儀の本来の意味とか、歴史も伝統も無く、信心とかの欠片も無い、という感じになっている。

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そういう状況になって、小さい葬儀を売りにする葬儀社が出てきて、今、大きな流れになっている。
大手などもそういう流れに乗って、オリジナリティある小さな葬儀、というものを模索する。

これが、嗚呼哀しい哉・・・と言いたくなるような葬儀になってしまった。

それは、もはや葬儀とは呼べないようなモノにさえなっているけれど、もともと葬儀の何たるかと知り得なかった人たちには、そういう葬儀が「ウケる」ということになっている。

安くすむ葬儀、という点でも、信心が無い人たちの葬儀、という面からも、佛式の葬儀の必然性、というものが問われているのは事実として、感じる。

それは「寺離れ」をした訳ではない、もともと「寺とは関係無かった」人たちなので、そういう人が佛式でない葬儀を営んでも、直接寺の打撃となることはなかった。

でも・・・
間接的に、寺に対する意識というものに影響を及ぼすだろう。

これが件の「アンチ・・」というものでないことは確かだ。

それが、何十年か経ってどうなるのかは、ワカラナイ。

時代が仏教を必要としないならば、それはそれで仕方が無い、と思っている。
もちろん、ワタシの代は無い丈夫だろうし、副住職の代もなんとか大丈夫だろうという、ちょっと楽観しているところはあるが、前に書いた「布教」というものが自分たちの立場・生活等を守りたいから、という意味なら絶対違うと言いたい。

高い戒名料だのお布施だのと言ってる寺は淘汰されるだろう。
将来ではなく、今でも、そういう苦情があれば、本山とかは強く出るべきだと思う。
全体の不利益になるのだから、離壇料1000万円とか言ってるバカな寺は、厳重に注意するべきだろう。

ここには「アンチ・・・」という要素の元がある。

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もしかしたら・・・
将来、寺の経営が難しくなったら、世襲は無くなるかも知れない。

今だって、働きながら「兼務」しているお寺は、全体の半分を超えて、7割という話もある。
今でも、世襲ができなくなっている寺があると聞く。

これが進んだら、世襲が難しくなる。

「アンチ・・・」云々どころではない、片方には「消えゆく寺」という問題が迫っている。

子供に継がせようとは思わなくなり、継ぐとも言って貰えなくなる。
その前に、結婚して貰えなくなり、子供ができなくなる。

ぶっちゃけた話、家族が無ければ、寺の経費はかなり詰められる。
しかし、世襲で守れなくなる。

この微妙なバランスの上にあるのが、今の寺だ。

この「自分の生活」のために布教するというのが根底にあるならば、布教なんてものは否定したい。
世間が「アンチ仏式葬」というなら、ソレでもいい。
そういう流れがあって、寺が廃れても、時代がそういう意思であるというならそうなってもいい。

実は、そういう(世襲によらない)寺があっても良いじゃ無いか?・・・と思っていたのだが、結婚しないのは異常という位に否定された。
そもそも檀家さんが困る。これがワタシが世襲に従った大きな理由だ。
自分がやらねば檀家さんがこまる。

「オレがやらねば誰がやる?!」・・・である。

そして、結婚して、良い女房が来てくれた助かっている。
とても一人では立ちゆかないと思うが・・・
やはり、家族に貧しい思いはさせられない、という気持ちが働いてしまう。
お布施を考える時に、どうしても、こういう気持ちが邪魔をする。
・・・これが私らの現実、である。


やがて、世襲が出来なくなった時、寺は志在る僧侶が、交代で守るということになるだろう。
江戸時代に戻るようなものだ。

いや、昭和の初期にはあった。
祖父は、農家の三男で、大きなお寺に弟子に出されたのだった。
そこには、同じような者が何人の修行していた。


そういう状態の方が、寺にとっては健康な状態といえるのかも知れない。

しかし・・・

人の死という大問題を目の前にした時に、「弔い方」への気持ちが、日本人の根底にある「ご先祖様」という大いなる信仰を捨てて「アンチ佛式葬」などという方向を向くことは無いと思っている。




「アンチ仏式葬」ということに対して書き進んだら、こんな結論になってしまった・・・



・・・そのうち、また続く・・・・






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