観劇「太陽が落ちてきた」

「池袋演劇祭」なんだそうな。
9月の1ヶ月間、池袋とその周辺にある14の劇場で、51の劇団が上演する。31回目だそうな。
「そんなモンがあったのね」・・・と思いつつ、大塚にある「萬劇場」という所に行く。
「劇団・生命座」の「太陽が落ちてきた〜すずなりの逸声(いっせい)」という芝居を観る。
・・2019年 科学の粋を集めた放射能研究所に5人の被験者が選ばれた。
被爆者である高齢男女、全く原爆に興味のない高校生たちなど様々な人選である。
その一人桂木辰郎は広島で被爆し、これが最後の協力と思って臨んだのがVR(バーチャルリアリティー)と呼ばれる最先端の技術だった。
被験者たちが、当時11歳の辰郎少年の受けた壮絶な時間を垣間見る。
果たして人は仮想現実の中でも体験者と同じ意識を共有することができるのだろうか・・
(HPより)
というお芝居。

我が学生時代は、例えば自主映画を作ってるグループもあったが、ワケのワカンナイモノを作っていた。
商業映画だってATGという、ただ暗いだけの映画が一部で持て囃されていたから、仕方が無い流れだったのだろう。
日本映画全体が暗かった。
芝居もしかり。
「タイトル」だけで観る気が失せるようなものばかりだった。
日本映画は、エンターテインメント性というものを理解するようになってきたけれど、さて、芝居というものは、その手作り感の中に、作り手のぎこちない主張が見え隠れするようなものが多いように感じる。
・・・というほど、多くをみた訳では無く、芝居に関しては、門外漢に違いないが・・・
次女が大学で劇団のサークルに入ったことで、その芝居を何度か観る機会に恵まれた。
自分としては、苦手な世界に踏み込んだ。
殆どの作品の舞台が「異世界」であったりするする。
非現実の世界が描かれる。
それはSF小説の世界に繋がる。
そういうモノが殆どだった。
この前観た「のん」さんの芝居もそうだった。
生身の人間が限られたスペースで、限られた方法で物語を見せるには、SF的な物語が向いているのだろう。
門外漢は、まず、その世界観と、舞台をどう使って演出されているか?という、演出の方法を理解するところから始まる。

芝居というのは、学生の頃の印象もあるが、イデオロギーの発露となりやすい。
芝居のテーマとなるのは、その背景に、政治・経済・社会・流行等へのアンチということが多い。
生身の人間が目の前の空間で直に演じるという「現実感」の中で、そのステージに描かれるのは現実ではない「物語」である。
そこに「芝居の演出」という文法がある。
目の前の役者、目の前の空間という現実の中に、その描こうとする世界、伝えたい心を感じ取る。
そういうものか、ということを思いつつ観る。
舞台は「今年」という設定だが、今のテクノロジーでは出来ないことなので、極々近い近未来と思う。
ストーリーは冒頭にコピペした劇団のチラシにある通り。
ただ、この主体が分からない。
科学的なテクノロジーを使う研究所が、戦争を疑似体験させることで、戦争をしないという心に導くというイデオロギーを持つとは思えない。
別の何かが研究所の技術を使って、そうさせる、というところがボヤけているけれど・・・
芝居というものが「目の前の現実」というものだが、そこに描かれる物語は、現代の人が書いた物語だ。
ストーリーの中では、VRぼ技術である老人の記憶を再現したものだということになっているが、この「現実の芝居」も「再現」されたものだ。
そこに奇妙な一致を見る。
芝居というモノを通じて、疑似体験させられているのは、観客である。

この「VRで体験させられる若者」の中の一人が、次女だった、というわけ・・・・(^^;)
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