いわゆる「終活」について、葬儀周辺の事象から考える(その2)

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6、「葬儀」を考える

 そういった核家族の人も、というか、だからこそなのか、ここに来て急に老後のことを考えるようになってきた。
 さすがに老境にいたり、友人知人、親戚の葬儀も増えて、さて、自分の問題として考えたとき、そういう知識の無さに慌てるということでもあろうかと、思う。

 ・菩提寺が無い(宗教が無い)
 ・葬儀にお金がかかる
 ・お墓が無い
 ・仏壇が無い(仏教の場合)

 まず葬儀、となった時を考えると、こういったことから問題が始まる。「終活」を考える、ということは、こういったことから始まる不安なのだろうと思える。

 そもそもどの宗教で葬儀をするか?
 仏教でやるなら菩提寺はどこにするか? 
 夫婦どちらかの実家の宗教が良いと思うが、まったく違っても構わないと思う。
 宗教に依らないという選択肢もありうる時代になってしまった。

 以上のことを考えて、葬儀の方法を考えておく必要がある。

 今年の春に、朝日新聞に「お経の翻訳機があればいい」というような投書があった。意味の分からないお経が良くないという投書で、議論になったが、私は投書した人の年齢に注目した。八十歳を越えていたのだった。
 お経の意味が分からない、というこの人は、八十年間何をして来たのですか?と聞きたい。
 八十年の間、葬儀や法事に出席する機会は多くあったろうし、神社仏閣に詣でたこともあるだろう。この八十年間、そういうことをまったく学んで来なかったのか?ということに驚いた。
 お経の意味など聞く機会は何度もあったであろうと思う。自分から勉強することだって出来たはずだ。それを「お経の意味が分からない」のは僧侶が話さないのが悪いというような責任転嫁をされても困る。この場合、学ばなかったこの人が悪いと思う。
 葬儀の方法は色々ある。今日、葬儀社があれこれ勝手に作っているので、バリエーションがある。

・直葬(ちょくそう)。葬儀をしない。病院から葬儀社の遺体安置室に置いて(二十四時火葬できないから)火葬場へ直行する。まれに、私どもが行って引導をする場合がある。例えば事故死などの場合。火葬を急ぐ必要から、火葬場で引導する等。

・一日葬という名で呼ぶケースが多い、通夜をやらない方法。

・家族葬。
言葉の意味からすると、本来は家族だけで行ない、宗教が入らないものを指していたのが、ただ単に葬儀の規模を指すだけになってしまった。
タレントさんなどが「葬儀は家族だけで済ませました」と言っていることから来ていると思われる。
この場合は「後でお別れの会を開きます」ということになるはずだ。会社でいう「密葬・社葬」のようなもの。
公私の「公」が大きすぎる場合にこれが適する。
「家族葬で行ないます」と言ってしまうと、お友達とかの会葬拒絶するような強い言葉になってしまうことが多いので、注意が必要である。

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 筆者は、いかなるケースでも、宗教が入れば「葬儀」だと思っているので、こういう呼び方は自分からはしないようにしている。
 私が行けば、葬儀は葬儀、ということである。
 これらはすべて、葬儀の規模をもとに、どこかの葬儀社が勝手に決め、その言葉だけが一人歩きしているものである。
 宗教が入らないものを、それぞれ「直送・一日送・家族送」とすれば良いと思っている。その方が相応しい。

 葬儀の本当の意味は、血縁者との決別であると同時に、社会との決別である。結婚式が新しい所帯を持ち、新しい家族が社会の仲間入りをしたことをお披露目することであるが、葬儀はこの逆で、一度に社会とのお別れをする儀式でもある。
 九十歳を過ぎた方の場合など、お友達がいない、ということにもなり、そういう方を家族・親族だけで見送るのは、これはいたしかたなく、子供・孫の会社のお付き合いでの参列は無くとも良いとは言える。
 しかし、香典が葬儀費用の助けになるということもある。家族葬というのは、規模が小さく経費がかからないように思われているが、安くても全てが家族の「持ち出し」になるという認識は持っておいたほうが良い。

 六十代の女性が「家族葬で」と言い残して亡くなられたことがあった。お友達の方などから、参列してはいけないのか?という相談を受けることがある。自分もお友達が亡くなったら葬儀に駆けつけたいと思うのだろうが、自分が亡くなるということを目前にして、それを考えられない人は多いようだ。
 「家族に負担を掛けたくないから」と言って「家族葬」という選択をする人が多い。それが優しさだ、というようなニュアンスだと思うが、そういう「ムード」がある。あくまで「ムード」である。現実的なものではない。

 これは、無責任に報じるメディアの責任も大きい。
 迷惑ではなく、子が親の葬儀をするのは当たり前、とはかんがえられないのか? ここにも核家族の影響があると思う。我が子であっても、配偶者を持ち、新しい所帯を成し、別の生活をしている者への遠慮があるのだろうか? 親子も、生活を別にしてしまうと、単純な親子とは言えない存在になってしまうのだろう。

 昔からの葬儀のしきたりには意味があったが、そういうものが「古くさいもの」として排除される傾向がある。葬儀をする葬儀社の営業も、司会などをする人も、核家族で民俗的な部分を知らない世代であるということもあって、そういう「自分が分からないもの」を意味も考えずに捨て去り、新しいものこそよろしいものだ、としている風潮がある。ホール葬となって、その傾向が強くなった。
 葬儀というものには、生きてきた人のその一生涯への感謝の気持ち、愛おしいという気持ちと同様に、死への畏怖という思いが強くあった。それが葬儀というものだった。
 それが、ホール葬となって、怖れという気持ちが薄らいできた。そこを担うのが「宗教」であったのだ。怖れが薄れると同時に宗教への気持ちが薄れたのかも知れない。あるいは、宗教心がないから、畏怖しない、ということなのかも知れない。

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7、「葬儀の後」を考える

 葬儀が終わった後、お骨をどうするか?ということになる。
 法律上「墓地埋葬に関する法律(墓埋法)」では、火葬でも土葬でも可能だが、事実上火葬のみになっているのが現状。法律上では、火葬という遺体処理に関してと、埋葬(墓地)に関しての記述はあるが、焼骨の扱い方には決まりが無い。必ずしも埋葬しなければならないということではない。

 近年「手元供養」という言葉を作った者がいて、お骨を家に置いておく、という形の仏壇もできている。
 しかし、配偶者などが生きているウチはそれでもいいが、家の者が全部亡くなった時に、どうすればよいか、ということになるので、これは薦めない。

 寺の墓地の場合、檀家になることが条件というケースが殆どであることは注意すべきことである。寺の檀家になるということは、葬儀はその寺でやるのが前提なので、直葬など、寺を呼ばずに火葬した場合、納骨できないので注意。当たり前のようなことだが、こういうことすら分かっていない人も結構いるのだ。
 寺の名を冠していても、一部檀家ではない人でも契約できる場合もある。石屋経由で契約できる所もある。公営・私営の墓地もある。
 寺で葬儀をして、その寺の墓地に空きがあれば契約するのが便利ではあると思う。

 ちなみに、お墓の場合「買う」とよく言われるが、土地を買うわけではない。その区画の「永代使用権」というものを契約するということになり、不動産のように土地の権利書、というようなものはない。解約が維持できなくなったら(墓守をする人がいなくなってしまった等)、返却する必要が生じる。その際のお骨の改葬法をどうするか?というとも考えねばならない。また、多くの場合、更地に戻す必要もある。

 宇都宮ではまだ聞かないが、ロッカー型の納骨堂というようなものも都市部ではある。
 宇都宮ではまだ切迫した問題にはなってていないようだが、いずれ、必要性が強くなってくるものと思われる。

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8、お墓はお参りする人が大事 

 納骨堂、共同墓、永代供養墓、樹木葬、海洋散骨等々遺骨をどうするか?という問題の方法は色々あるように思える。
 「じめじめした土のお墓より自動搬送式の納骨堂がいい」とか、「結婚している・していないにかかわらず、「旧習に縛られなくていいんじゃない」とばかりに旧来のお墓から飛び出て、「わが家らしい」あるいは「自分らしい」お墓を求める女性が増加の一途だ」という。
『いまどきの納骨堂──新しい供養とお墓のカタチ』(小学館)著者・井上理津子。
 田舎のお墓を、いわく「お寺さんにお任せし、残したまま」で、このほど都心の納骨堂に自分たち夫婦用のお墓を買った。「舅(しゅうと)、姑(しゅうとめ)と同じお墓に入るのは勘弁して。お墓に入ってまで『嫁』は、失礼させていただきます、って気持ちなので」と言い、「嫁ぎ先のお墓に入りたい女なんて、私の周りにはひとりもいないんじゃないかしら」・・・ということらしい。
 『女性のための共同墓』という名のお墓が二十年前に建てられ、すでに約四十人が入り、四五〇人が生前契約している
のだという。

葬儀もお墓も「自分の問題」だと考える人が多いのが昨今の傾向である。
 ここで重要なのは「自分が入りたい墓」ではない、ということだ。墓を守り、お参りする人の問題である。ここで語られているのは、自分の我が儘でしか無い。ここにも、核家族の影響はある。自分が自分の家族を作って生きてきたという生き方が影響していないだろうか。
 そして、もうひとつ、ここに「宗教性の無さ」というものがある。
 仏教では特に、死後の問題を中心に考えてきた。死んだ後まで、この世のしがらみのようなものを引き摺ってゆくような教えは無い。亡くなる者の成仏を願う気持ちと、生きている者の供養するという気持ちが一緒になって死後のイメージは作られる。
 その教義的な部分を詳しくは述べないが、そういうものを連綿と受け継ぐ文化として、小さいときより身につけていないことの結果が、こういう自己中心的な考えになるものと思える。
 死のイメージというものも、その宗教性の無さから、自分勝手に作ってしまっている。
 「新しい供養とお墓のカタチ」というようなものは、根本に無知と自己中心の考え方があると思う。

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9、お墓の在り方のこれから

 しかしながら、お墓に関しての「これから」は、問題が多い。
 お墓というものは、継続する家と土地があって、田畑があるという農耕民俗的なものが根底にあった。村の、あるいは部落の中に、共同の墓所があったり、自分の山や田畑の一部にお墓を造っていた。

 さて、現在、核家族が圧倒的に増え、それぞれが墓を持つことは難しくなっている。
 かつてバブルの頃、当山の墓も急速に契約者が増えた。その時、こんな感じでみんながお墓を造ったら、日本中がお墓だらけになっちゃうんじゃないか?と思ったのを覚えている。

 核家族の皆さんが、お墓が無いことに気が付いて、なおかつバブルの中心は土地問題だったから、お墓も土地問題だという認識もあったのだろうと思える。みんなが焦って墓を求めていた、という印象がある。

 そのお墓が、今、後を見る人がいなくなって改葬をする、というケースが増えてきた。
 筆者が住職となって2年余の間にも、何件も改葬している。

 お墓も家も同じだと思っている。お家が借家であったり、アパート・マンションであるのと同様、借家=一時的な納骨、あるいはアパート・マンションのようなお墓・納骨堂、という形も必然となるだろうと思う。宇都宮では、そういうものはまだ殆ど無いと思えるが、必然性は高いと思う。
 お家が一世代しか住まないのであるから、お墓も一世代でオシマイというものがあるべきだろう、と考える。これからの課題であろう。
 これから新しくお墓を契約したいと考えている人は、そのお墓を見る人のことを考えて欲しい。夫婦が亡くなって入ったお墓を誰が見るのか?ということが一番大事なことである。

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 これを「祭祀承継」という。(法律上は「承継」という)
●民法・第八九六条
相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する。ただし、被相続人の一身に専属したものは、この限りでない。

●同・第八九七条
一、系譜、祭具及び墳墓の所有権は、前条の規定にかかわらず、慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者が承継する。ただし、被相続人の指定に従って祖先の祭祀を主宰すべき者があるときは、その者が承継する。
二、前項本文の場合において慣習が明らかでないときは、同項の権利を承継すべき者は、家庭裁判所が定める。


 という規定がある。
 一般財産が諸子均等相続になったが、墓はそうはゆかない。

 家督相続の伝統から、先祖代々の墓を継承すべき者、祭祀を継承する者(祭祀主宰者)が決められていたが、分与できるものでは無いため、別処理となった。慣習とは、主に「家」を守る者、ということを言うのだろう。
 これは、既に家があって、墓がある場合の話ではある。

 しかし、これから墓を求めるような場合も、このことを考える必要がある。
 例えば仏教であるなら、誰が中心となって法事をやるのか、誰が墓を守ってゆくのか、ということを決めておくことが必要になってくる。

 そこで、いくつかの具体的な例を挙げる。
 例えば、お子さんが女性だけの場合。女性のお子さんが一人だと、嫁いでいるか、核家族を作っている場合。実家の両親が亡くなったとき。そのお墓とお骨をどうするか?
 嫁ぎ先にお墓が無くて、亡くなった親に墓がある時は、そのお墓を直して継承することもできるだろう。
 両親のお墓として娘が嫁ぎ先の墓とは別に守っているケースもあるが、それをその子供(故人からすれば孫)の代まで継承するのは難しいだろう。
 現在、寺の墓地の解約が進むのは、このような理由でお墓を見るべき人がいなくなることによる。
 契約者自身が寺から離れた土地に引っ越してしまう場合もある。契約者自身が墓参りできなくなったり、また、子供も離れているので、お参りができなくなるというケースもある。

 核家族の子供も核家族を形成し、その住まいが親の住まいの近くにあるということの方が希であると言え、今後も、こう言った問題は多くなるものと考えられる。
 これからお墓を求める人も、子・孫の代まで考える必要がある。
 そこまで考えると、お墓の必要性そのものが疑問になり、新しいお墓、或いは納骨の方法を考える必要があるといえよう。

 昔から続くお墓の在り方、というものが、大きく変わる時なのかも知れない。





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この記事へのコメント

タロウカジャ
2019年10月11日 03:24
「終活」、「家族葬」が流行っていますが、自分のご先祖(親御さん)を見送るのにそんなに手間を省くほど、日々の生活が大変なのかな、葬儀は家族葬で済ましました。香典は個人の意思で辞退します。すべて人との交わりを拒否しているようです。
余りにも人の世を味気ないものして居るようで、なんとも納得しかねます。
会館葬でシステマチックに行うのなら、香典も会費と考えて受取り、御詠歌も生演奏と考えてドンドン取り入れたら良いのではないでしょうか。
面倒くさいもの、難しいものを全て避けてどうするの、施主の方の人生も小さな人との繋がりで終わられるのでしょう。なんとも残念ですね。
三日ボーズ
2019年10月12日 09:10
信心というのは、文化として育まれ、受け継がれてゆくものなので、今か急に信心しろというのも無理なことだし、信心が無い、ということも「心のありよう」なので致し方ないことと思います。
ただ、そういう人たちが、本来宗教に依っていた部分に、自分たちそれぞれが宗教的無知によってこしらえたファンタジーを、勝手に言い出すのでこまるわけです。
葬儀社もメディアも主導しているのがそういう人たちで、そういう人たちは、旧来のものは「よそろしくないもの」として排除しようというベクトルが働いています。
地域の文化、家の文化が無い世代なので、そういうものが体感的に理解されていないわけです。
そういうことで、いま、急速に「古くさい物」が勝手にドンドン変えられている訳です。