寺への敵視に対して・・(続き)

スクリーンショット 2019-12-17 17.40.40のコピー.jpg
「字数制限」は言い訳にはならない。
字数が足らない場合は、返信→返信・・・で繋げることができるから。
この辺りは、まだ、素直に書いてる感じがする。
実際にボーズから返信が来て、ちょっとだけ焦ってる風でもある。

さて、彼が言う「釈迦仏教」とは何ぞや?

これが、前の記事にも書いたように、難題でもあるわけですな。
チナミに「お釈迦様の教えが仏教」なのだから「釈迦仏教」と言うのは「先生様」と同じだけど、ね。(^_-)

この大問題をどう答えるか訊ねましたが、残念ながら、コイツは「釈迦仏教」という言葉のこととしか思えなかったよう。
こちらの問いは、理解できなかったようだ。

スクリーンショット 2019-12-17 23.27.59のコピー.jpg
あ〜、これは駄目なパターンか・・・と思って、段々いい加減なコメントをいれてちょっと煽ってみたら・・・
こういう手段に出てきました。
返信とかリツイートとかを使うと私に分かってしまうから、分からないようにスクショを載せるという方法。
手慣れたモンです。

スクリーンショット 2019-12-17 23.28.24のコピー.jpg
そして、ワタシの名前を連呼してくれてます。
自分は匿名のままで、私の実名等を繰り返し載せるという、実に卑怯な手段にでてきたわけですな。
ネットの害虫的思考の呈を晒してきました。
これを見れば、普通の人は卑怯な手段だと思うでしょう。そういうことが分からないくらい舞い上がっているのでせうか?
実際、そのような指摘をされておりました。

スクリーンショット 2019-12-17 23.28.34のコピー.jpg
真ん中に「特集組まれるのも納得です」と言ってるところでボロがでております。
まとめたのはコイツですからね〜。
まったく、頭が悪い。困ったもんだ。

スクリーンショット 2019-12-17 23.28.45のコピーa.jpg
もう、この辺りからは放置しました。
バカがドンドン馬鹿になっている様子が見てとれます。
軽い自己崩壊でしょうか。
ネット上にある虚大化していると思い込んでる自分が、崩れて行くのを感じたのあか、その虚大な存在を保とうとするかの如きコメントを書き続けるという、なんとも悲しい状態に陥ってしまいました。
こうなると、もう、救いようがありませんね〜。

スクリーンショット 2019-12-17 23.28.45のコピーb.jpg
相変わらず「釈迦」と呼び捨てが気になります。
信心があって言ってるのではない、という可能性が80パーセントくらいあります(^_-)

「お釈迦様がそんなことを言う」以前に、そのそも「釈迦仏教」には、成仏という概念が無かったのですヨ〜ん。
悟って修行して静かに生きて行くということだけ。
大乗仏教になってから、お釈迦様が人間として生まれた方だ、ということに注目して、ならば自分も仏になれるかも知れない、という考えがッ出て着る。
「お釈迦様のように成りたい」というのが「成佛」のはじまり。だからお釈迦様がおっしゃるはずが無い。
それが、随分掛かって「死後の成仏」ということになってくる。
日本においては、これこそがテーマになってくるということだ。

さて、この「仏」・・ではなく「佛」という字の問題。
実は、このツクリの「弗」という字は「審らか・大いなる」という意味もあるが「非ず」という否定的な意味もある。
このTwitter氏のハンドルネームは「仏は人間」というが、もしかしたら「佛」は「人に非ず」かも知れないよ。

浄土経による浄土宗の考えは、とりあえず往生できるが「成佛」には、生前の行ないによって、主に時間的な差が生じるらしい。

その前の真言では、佛の印を結び(身)、佛の言葉(=真言)を唱え(口)、佛を心に思う(意)ことで、行者が佛となり、本来在る佛の加持力を得て、自分を佛となった自身が、衆生に功徳を与える、というのが密教の即身成仏なんだろ私は思う。

仏教は・・・佛は「在るもの」(小乗)から、「成るもの」(大乗)へと変化して、「佛であるということに気づく」(金剛乗=密教)というものに変化する。

日本人はお経を翻訳せず、そのまま読んだ。
つまり、意味はどうでも良かったのだ。
真言・陀羅尼は意味を言わないことになってる。
お経は「読誦」と「書写」の功徳というものが説かれているから「読む」ということに注力している。

ただ、弘法大師様の著書『性霊集』などみると「供養」という意味で、講経、つまりお経の講釈をしている。
これは、奈良仏教と同じで、読経による功徳、ということはあまり考えられていなかったのだろうか?

詳しくは「お経の翻訳機が欲しい」という新聞の投書について書いたところに書いてあると思う。

お布施は「対価」ではない。
我々の「法施」に対する、お檀家さんからの「布施」、ということ。

それは、前の記事に書いたように、申し訳ないけれど、寺を維持するのに必要な額、ということになる。
ここが傲慢になってはいけない、と心していることだ。

「僧によっては金額により読むお経を変え差別するという事をご存じか」というが、実例があれば示して欲しい。
それは・・・無い!
聞いた風なことを言ってるけれど、そんな事があるのなら教えてくれれば、オレが直接抗議しに行くよ!

戒名を一律にしたという住職がいた。
どうされたのか詳しく知りたいと思ったが、先日亡くなられてしまった。

それは、不公平になることもある。
裕福な人にはできるだけ多く、貧しい人は少なくてもいいですよ・・・と、相応のお布施をいただくのに、誰かが考えたシステムのよう。
善し悪しはあるけれど、収入に応じた額で、という意味では、公平なのかな?という感じもする。

200人からの会葬者がいる葬儀と、家族だけの葬儀ではお布施の額の高低もいたしかたないか?・・・と思うのですが、いかがでしょうか?

スクリーンショット 2019-12-17 23.30.23のコピー.jpg
なんか、カワイソ〜なくらい論理が破綻してきた。



ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント