人の行く末・・・(その4)

このまま行くとどこまで行くかワカランようになってしまった。
覚鑁上人の考えの件はこのへんで終わって、後々調べよう。

PA030034.JPG
前回の覚鑁上人の著書は、どうも、自身の最晩年に自分の為に書いたものと思える。
そんな切実としたものを感じる。
南無阿弥陀仏で極楽往生というムーブメントの中、真言教学では、死後の行く先が分からない。
覚鑁上人も、死を目前にして、そのことを感じていたのだと思う。
「どこへ行くのか?」と。

ここで注意すべきは、生きてる者が何らかの手段で成仏を願うような、修法・法式などの手段が無い、ということ。
せいぜい追善をするくらい。
地獄に墜ちてるかもしれないから、追善をする。
それ以外は、亡くなる場所の飾り方のようなものと、当人の心構えである。

「葬儀」という概念が無い、ということに注目しなければならない。
どんなに頑張っても、地獄に墜ちる可能性があるのだ。

PA030079.JPG
浄土宗なら、とりあえず極楽に往生できるが、成仏まで時間がかかる。
九品という考えがある。

ここにも問題があって、親鸞聖人によれば、悪人でも往生するという。
じゃあ、殺人犯と被害者が同じ所に行くのかい?ということになる。

悪人は、九品の下の下「下品下生」に往って成仏にチョ〜〜長い時間がかかるという「区別」しかない。
これを浄土の人はどう説明するのだろうか?

ただ、誰でも往生するということは、日本人の死生観に基本的な部分でマッチする。
往生して、自分の行き先に応じた修行をして成仏したら、また、現世に還って人を導く、という考えも、日本人に合ってる。
日本人の元々の考えは、あの世に行って、魂鎮めがすんで、しばらくしたら、この世に生まれ変わる、というもの。
でも「往生」という考えが、イマイチしっくりこない。
これからは、ますますしっくりこないものになるだろう。

PA030037.JPG
人々が、葬儀において、我々に願うのは「魂の安寧・安定」である。
これを人々は「成仏」という。
これは仏教語としての成仏では無い、ということだ。
死んだ人の魂が荒れるかも知れないから、そうならないように・・・という考えも無くなってきていると思うが、家族が願うのは、魂の安寧、ただそれだけだ。
浄土宗の言う「往生」でもいい。
安定してくれれば、なんでもいい・・・・そういう気持ちなのだ。

命は分からない。
死後も分からない。
それを分かったように処理してくれるのが宗教なのだ、という思い。それが我々に向けられているということ。

私らだって、分からない。
分からないけれど、師資相承の方法がある。
読経の功徳も信じる。

PA030083.JPG
日本の仏教は色々あって葬儀のやり方も概念も違う。
しかし共通しているのは「地獄があるかも知れないけれど、そこには行かない。行かせない様にする」というもの。
これは「末法の世」から「逝く先」を心配するようになった日本人への、仏教の答えだ。
浄土宗系がいくら「往生」を説いても、一般ピープルには、イコール成仏だろう。
これは仏教語ではない成仏だ。

さて、浄土系なら「往く先」は極楽浄土、と言い切れるが、他ではどうだろう。
「成仏」は言うが、それが行き先には直結しない。

天台・浄土・真宗(西)は極楽浄土で良いと思う。
真宗(東)が変なコト言ってるができれば無視したい。
・・・(浄土とは、あの世でもなく、理想郷でもなく、人間を見失った者に人間を回復させる仏の世界とか・・・)

曹洞宗では「悟りの世界」。
日蓮宗では、お釈迦様のいらっしゃる霊山浄土。

臨済宗はちょっと分からないので今度誰かに聞く。

高野山真言宗では、弥勒菩薩の兜率の浄土、という。
これは弘法大師様が「御遺告(ごゆいこう)」の中で、兜率天に往生して、来たるべき弥勒の下生の時に一緒に降りてくる、と仰ったというもの。
まあ、この『御遺告』は、偽作だと決まってる感じだけれど、これによって、兜率浄土ということになる。

弥勒の上生信仰というものがあった。
弥勒菩薩は、お釈迦様の次にブッダとなることが約束された菩薩様で、お釈迦様の入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。
それまでは兜率天で修行(あるいは説法)しているといわれ、の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。それまでは兜率天で修行(あるいは説法)しているといわれ、中国・朝鮮半島・日本では、弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行この弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行した。
これは、極楽往生よりも古いと思える。

おそらくその後、この弥勒如来の下生して説法する「弥勒の三会(さんね・竜華三会)」ということが重要視された時期があって、一時期、とりあえず阿弥陀様の極楽浄土に往生しておいて、そこで弥勒の三会を待ち、その時が来たら自分もソコに参加したい、という信仰が流行ったようだ。
『弥勒下生経』には、初会96億、二会94億、三会92億の衆生を済度すると説いている。
高野山に皆がこぞって納骨したり、供養塔を建てるのは高野山が三会の場所のひとつとされたからだ。
それは弘法大師様の「入定信仰」以前の話だと思う。
「御遺告」には、弥勒の下生までしか書かれていないからだ。
「御遺告」の段階では、弘法大師様は兜率天にいらっしゃることになってる。

それが、弘法大師様は、弥勒の下生を待って修行していらっしゃる、という風に変わった。
そして、それが「お大師様の側に」・・・という信仰に変わっていったのだ。

PA030098.JPG
日本人の死生観に関しての感覚は、人は死ぬとどこか別の所に行って、そこにいて、生きている人を見守っている、というのが基本。
それが仏教が具体的に「極楽浄土」というものを示した。
同時に、仏教は地獄という存在もしめした。
陰陽師じゃないが「脅して救う」という面もあった。

仏教に世よって示された、それまでには無かった「極楽と地獄」。
これに、日本人は翻弄されるようになる。
地獄に驚いても、もともと死を嫌う神道的考えでは何も出来ない。
元々仏教からきた「地獄と極楽」の概念なのだから、日本人は仏教に弔いを任せ、魂の安寧を期待する。

長いことかかって、僧侶が葬儀をするようになり「葬式仏教」が生まれる。
そして、徳川の世になって、寺請け制度ができて、寺が1人1人の葬儀をするようににあったと思える。

ここで、葬儀をする側も、される側も、共通の概念は「地獄には行かない」ということである。
魂の安寧が約束される、ということになる。

施餓鬼、お盆の概念の前提は、ウチのご先祖様、亡くなった人は、佛式で葬儀をしているのだから、成仏しているのだけれど、なかには、そのように恵まれていない者もいるから、そういう者を救うのが功徳になる、という考えがベースである。

PA030137.JPG
我々が「密厳浄土」と言ってるけれど、さて、それはどこにあるの?・・・と問われて答えられる新義真言のボーズがどれほどいるか?

じゃあ、お前はどう思っている?・・・と問われれば、肉体は五大(=五輪=地・水・火・風・空)に戻る。
識大(=魂?)は、分からない。
生きている心に残る・・・か。
でも、これじゃあ、理解しにくいから、西方極楽浄土で良いと思って、そう話している。
但し往生ではない。成仏である。

往生で、修行していては、生きている人を見守ることはできないから。
仏と同格になる。

・・・という感じかな〜?



ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

007
2020年10月05日 17:11
オニヤンマ?ですか、、、
スゴイ迫力のマクロでアップ画像!、、、Byオリンパス機。。。
三日ボーズ
2020年10月05日 18:13
いや、普通の、赤とんぼになりかけのヤツ?