「今 考える未来の仏教~次代を担う立場から~」

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・・・というテーマのシンポジウムに行ってきました。
浄土宗総合研究所という所の主催で、増上寺において開催されたものです。

地元仏教会の仲間が出るということでもあったので、お手並み拝見、ということでもあります。

これも、また、長ぁ~~~くなる危険性があるテーマでありますので、心して取りかかります。

その前に、この看板の字、いいなぁ~。上手いなぁ~。品があるなぁ~。こういう字、書きたいなぁ~。

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さて・・・まずこのタイトル「今 考える未来の仏教~次代を担う立場から~」ですが・・・

結果からいうと、このテーマについて何か形になって見えてきたか?・・・というと、否、でありました。

そもそも「未来」という言葉の使い方に異議あり!・・・でございます。

「未来の住職塾」なども僧ですが・・・いや、そうですが・・・
「未来の住職」という言い方も、なんだかニヤケている感じがします。
この言葉を使う時点で「お前、真剣に考えてねぇ~だろ!」と思っちゃいます。
「今生じゃないんかい?!」って位の感じを「未来」という言葉には感じちゃいます~

「未来の住職塾」も、未来などといいながら、現在しか見ていないんだと思います。

「未来」というのは、具体性を拒否している感じがして嫌な言葉です。
「次の住職・今度の住職」でしょ? ちょっと格好良くいうなら「次代の住職」でしょ。

これは・・・
私が、例えば80歳まで生きられるとして、その2/3を既に終えてしまっている、という人生観的なモノが大きく影響しているものとも思います。

「次代を担う立場から」という副題が付いているように、現在副住職である人たちが「これからをどう考えるか?」「自分たちが住職となったとき・・・を考える」というシンポジウムですから、対象となるのは、まだ人生の1/3から、半分程度を過ぎた人たちです。
まだまだ「未来はある」と思える人たち、ということでしょうか?

「未来」だと思ってんのか?お前たち!!・・・と言いたいのでありますよ!

そんなに「遠く」はないだろ!?・・と思う訳です。
「未来」っていうほど未来じゃないだろ!?・・・と思う訳です。
「現実」だろ?!・・・と言いたいのでございますよ。強く!

「未来」って言葉を使うことで、なんだか、ず~~~っと先のことを考えているような、他人事のようなことを言っているような感じがしてしまいます。
危機感を・・・と言う割に、切羽詰まった感じはしないのであります。
「未来の住職塾」なんて~下らないものに影響されちゃったか・・・と思います。

「ふざけんな!」というくらいに思っているのであります。

これは「今」の問題だし「今のちょっと先」の問題だと思うのです。
「未来」なんて言葉を使っちゃうあたりが「未来の住職塾」同様、甘い!・・・のでありますよ。

ま・・・

もう「着陸態勢に入った」ようないい歳のオヤジのヒネた見方になってしまうことをお許しくだされ。

おまけに・・・「仏教」ということばも、なかなか使いづらい言葉です。

浄土宗主催のシンポジウムで「未来の仏教」などと言われても困るのであります。

「仏教」と言うと、大局的に見ているというか、現実問題を俯瞰でみるのだよ、という感じがしますが、実際には、不可能に近いと思うのです。
日本において「仏教」という言葉で語ることは、非常に難しいことだと思うのです。
現実として・・・日本における「仏教」とは「宗派」です。

これは「全日本佛教会」でもできないことだと思います。
「宇都宮仏教会」あたりが、良い塩梅に「仏教」をしている感じがします。
多分「宗派」を出さずに「協調している」からですね。
「同じ仏教なんだから」ということであっても、なかなか難しいことで、手前味噌ですが「宇都宮仏教会」はそれが上手くいっている希有な形だと思います。

これも結論から言うと、仏教ではなく「寺」あるいは「僧侶」ということについての話になっていたようです。

さて・・・

「シンポジウムの開催趣旨」に、以下のように書かれています。

宗教年鑑(平成25年版)によると国内の仏教系宗教法人の数は7万7400あり、そこには33万8895人の宗教者(教師)が所属します。約50年の間、仏教系宗教法人の数は大きく変動せず、このデータからは寺院数の減少という形での、仏教の衰退を読みとることはできません。
しかしながら、仏教教団は、時代時代において、一貫した危機意識を抱いてきました。


危機意識というのは・・・例として・・・

昭和21年8月の浄土宗「宗報」に、以下のような記述があったとして紹介しています。

自分の家が何寺の檀家であることを知っていても、宗義のなんたるかは勿論、何宗であるかも知らない者も沢山あろうと思います。それではダメです。十年、二十年先には寺院の維持は不可能になりましょう。この寺檀の関係を伝統以上に新しく組織することは国家の急務であります。

コレについてコーディネーターは・・

これは、戦後「家」というものが、戦前までの日本の封建的な制度の代表として受け止められていた。それに対する批判です。ということを念頭に置いて読むべき一文です。
「家」というものを中心とする家族制度が無くなってしまうと、家を単位として信徒を管理する寺壇制度と言うものは成立しない。個々人それぞれを教化する必要がある。これは70年前から考えられていたこと。


・・・と言っていまっしたが、これは、ちょっと違うと思います。

これは、当ブログでは何度も書いていることですが、日本の「家」という形が崩れるのは、もうちょっと後で、戦後の成長を支えるために、主に、労働力と営業力として、農村部から、都市部に向かって、人が動いた。その人たちが「自分たちの家を建てた」という辺りから顕著になるものと思います。

この文は、戦後すぐのことですから、問題は、ちょっと別のところにあって、明治以来の国家神道に基づく軍事政権に痛めつけられてきた仏教、という点を念頭において読むべき一文だと思います。(^_-)

「国家の急務」という点が、そういうことを言っているんだと思います。
国が国家神道で寺を痛めつけて来たんだから、これは「国がやれ」と言っているのではないでしょうか?

しかしながら・・・「危機意識」というようなことは、そりゃ~もっと前、明治になったころから言われていたことなのです。
明治から昭和初期の仏教関係の本など見ると、割と、この文章のような見方・書き方はよく見るものです。
自分たちの現状に危機意識をもって考える、ということも、このあたりに始まったことでもないのですよね。

そして・・・檀家制度の崩壊、なんて~ことは、ず~~~~っと、繰り返し、言われてきたことです。

それについても、何度も記事を書きました。

これは、戦後、実家から独立して家を作った(実際の家と、家族の意味で)人たちが、増えたのであって、寺院の数が変わらなかったのと同様に、檀家さんの数もそんなに劇的に減った、というものではない、と思っています。

人口が増えた=新しく家を作った人が増えた・・・ということでもあると思います。

この新しく家を作った人たちの所には「仏壇が無い」というケースが殆どでしょう。
実家に帰れば仏壇に手を合わせ、墓参りもするけれど、自分の家には「宗教が無い」・・・ということです。
「ウチには先祖はいません」と言ってしまうような人たちです。

こういう人たちの家が増えたのだ、と、私は思っています。

寺壇制度の中にある、長男が家督を継いでいる家(家を新しく作った人たちの実家)が、変わらずあって、その上に「家を新しく作った人たち」がいる。
これが増えてきて「家を新しく作った人たち」の割合が、全体の中で大きくなっていて、オマケに「家を新しく作った人たち」の子供たちも「家を新しく作った人たち」となって・・・

宗教が無い人たちが増えているということで、これを見て「檀家制度の崩壊」と言ってしまうのは、見方を誤っていると思うのです。

「家を新しく作った人たち」は、また「お父さんお母さんから始まる家」です。

その子供たちも、、両親と同様に家を出て「家を新しく作った人たち」となります。
そして、この「家を新しく作った人たち」が日本人の多くの割合を占めるようになってしまった。
・・・ということが問題なのです。

ここに「文化の継承」が無い、ということになるのです。
当然「文化としての宗教」も消滅している、ということです。

問題は「ここ!」なのであります。


・・・ああ、また、長くなりそ・・・と言いつつ、続く・・・<(_ _)>







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